「学ぶ」と「覚える」の違いを考える
「考えさせるソフトが欲しい」
以前、そんな相談を受けたことがあります。
AI であるとかIT システムに、いったい何を求めているのだろう……ということは、ひとまず置き、「考えさせる」ということを一度、検証してみたいと思いました。
少し前に「課題解決型人間」などと言った人物像が描かれていることがありました。
ひょっとしたら今でも、そんな表現をしているかもしれません。
もちろん「課題解決の型」を覚えさせることが「課題解決型人間」の育成ではありません。
求められているのは「考える力」です。
だからこそ「考えさせるソフト」なのです。
2020 年の新しい学習指導要領の中でも、「学んだことを人生や社会に生かそうとする学びに向かう力・人間性など」「実際の社会や生活で生きて働く知識及び技能」とともに、「未知の状況にも対応できる思考力・判断力・表現力など」として、3つのバランスのひとつに数えられています。
ところが「考える力」とは、なんぞや? ということに明確な答えはなかなか出てきません。
正解がある問いとは思えませんが、私なら……「疑う力」と応える……でしょうか。
10年ほど前のことになりますが……教育システムとして日本に存在する 6・3・3 制は、最澄が考えたものだという話を聞いたことがあります。
比叡山で学生を教育するための教育方法として 6.3.3 制が考案されました。
最初の6年はひたすら覚えることに費やされ、 次の3年間で、覚えたことの一つひとつを疑うという工程があり、 最後の3年間で疑ったことを検証していく期間が設けられているといいます。
同じ 6・3・3 制でありながら、大学受験のためにひたすら知識を覚えていくために費やされる 12 年間との差を、当時は考えたものでした。
いま改めて「考える力」を考えてみると、最澄が教育手法として設けた「疑う」という工程 が、とても大事なのではないか? と思えるのです。
認知学として、人の記憶モデルは、コンピューターと同じ「短期記憶」と「長期記憶」のモデルが一般的です。
しかし、コンピューターの「認知」の中には「疑う」という工程はありません。
型を覚え、型にはめこむだけの課題解決であれば、コンピューターであってもできるように なるでしょう。しかし人や社会が求めている「考える力」とは、コンピューターにはできない力ではないで しょうか。
とするならば、人間の認知の工程にありながら、コンピューターの認知の工程にないものが鍵を握るように思うのです。
「疑う」の先に「考える」があるとするならば、疑う前に解決の型を覚えて答えの導き型を覚えてしまう現代の教育の中では、「考える力」はなかなか育ちにくいように思います。
それは本当に正しいのか?
もっといい方法はないのか?
ほかのやり方は考えられないのか?
同じことをしていても、違う意味が生まれていないのか?
システムエンジニアがシステムを構築していく過程は、「疑い」の工程です。もしかしたら、日本で上流工程を担うシステムエンジニアがなかなか育たないということと、 同じ問題を孕んでいるような気がしました。
この記事を書いたひと
藤井 九曜
(ふじい くよう)
学習塾等教育現場で利用するシステムやアプリケーションを開発してきた文系出身アウトドア派のシステムエンジニア。
趣味は登山。娘が小学生のうちに100名山を一緒に登って回ろうと計画。7歳の娘が現在22座登頂。しかしコロナ禍でペースダウン中。