【はにわ×STEAM】それぞれの埴輪が持つ意味とは ー円筒埴輪、家形埴輪、動物埴輪、人物埴輪
埴輪が造られたのは3世紀中頃から7世紀の初めまでの約350年。これは前方後円墳が造られていた期間とほぼ重なっています。西暦500年前後の短い期間、韓国南部で前方後円墳が出現していますが、これは倭(日本)との関係において築造されたもので、前方後円墳は日本独自の形として知られています。
埴輪は、土中に埋められていたのではなく、古墳の頂上部や古墳の周囲、濠に沿って一周するように並べられていました。つまり、埴輪は「古墳の飾り」としての役割を果たしていたということです。
円筒埴輪のルーツ
埴輪は弥生時代の中期に王の葬礼や祭祀に用いていた、飾り立てられた「特殊壺」とその壺を高く掲げるための「特殊器台」をルーツとしています。
特殊壺は、弥生時代後期になると装飾度が増していき、供物を乗せることよりも壮麗であることが優先されていきます。そしてお酒や水を入れるという壺の本質的な機能さえなくして、最初から底に穴を空けた儀式用の器へと変化していきました。
一方で特殊器台は、弥生時代後期末になると壺を受けるための受け口を残しながらも寸胴化し、やがて完全な筒形の形式のモノが現れ始め、3世紀後半には壺と器台を合体させたものが登場します。現在ではこの段階の特殊器台が埴輪化したと判断され、最古の円筒埴輪の形式だと考えられています。
円筒埴輪には、古墳に荘厳さ加えるという視覚的な効果とともに、古墳を守る思想的な意味も込められています。すき間さえも通さない…という意味からか、円筒埴輪の両側にヒレを付けたものも出土しています。
形象埴輪が伝えているものとは
埴輪が登場してから100年ほどの間は、円筒埴輪や朝顔型埴輪、壺型埴輪だけでしたが、古墳時代前期の半ば(4世紀中頃)になると、さまざまな器物や動物をかたどった形象埴輪が登場し始めます。
こうした形象埴輪は、古墳時代の住まいや服装、儀式を現代に伝えてくれています。
埴輪のなかでもっとも早く登場した家形埴輪は、単なる「家のミニチュア」ではなく、古墳で行われる葬送儀礼と密接に結びついていて、王の魂が住まう依り代の役割を担っています。
家形埴輪は当時の一般的な住居である竪穴式建物をかたどったものではなく、地位の高い人物の住居や倉庫、公共の建物をかたどったものが多く出土しています。
古墳の頂上部に並べられていた家形埴輪は、4世紀代の主要な前方後円墳が歴代の天皇を祀っている「陵墓」と特定されているため、どのように配置されていたかは明らかになっていません。ただ、盾や蓋(きぬがさ)、冑、矢を入れる「靫(ゆぎ)」を組み合わせた盾形埴輪で複数の家形埴輪の周囲を囲っていたものがあることが明らかになっています。
「蓋」は貴人に差し掛けた日傘のことですが、これが転じて「王のいる場」を象徴する器物になったと考えられます。また、盾や甲冑、靫(ゆぎ)などの武具は儀礼の場を飾り立てるとともに、古墳で眠る王の亡骸を守る役割を担っていると考えられています。
古墳時代前期の半ば、動物で最初に鶏が埴輪として登場します。
さらに古墳時代中期になると、狩猟場面を構成したシカ、イノシシ、鈴をつけた犬や鵜など多くの動物が埴輪として登場します。大陸や朝鮮半島から乗馬の風習とともにもたらされた馬は、王の権威の象徴として豪華な馬具を装飾した飾り馬として表現されています。
古墳時代の住居と日本の伝統的な屋根
雨が多い日本の家屋は、雨水が早く流れ落ちるように勾配が2つ以上ある屋根、大きなひさしが付いているという特徴があります。
日本の伝統的な屋根として、切妻造、越屋根、寄棟造、入母屋造などが挙げられます。
切妻造は、本を開いて置いたときのような形をしている屋根です。雨が落ちていきやすいので、今でも雪が多い地域で用いられています。
越屋根は切妻の上に切妻が乗った構造をしていて、比較的大きな建物で用いられています。寄棟造の屋根は、4方向に勾配があります。このタイプの屋根は風にも強いため海のそばや台風が多い地域で、よく用いられてきました。
入母屋造は、切妻と寄棟を合わせたような形で、かつては格の高い構造だったため、全国のお城の天守閣にも用いられています。
家形埴輪の屋根も切妻造、寄棟造、入母屋造の3つの形態があります。
古墳時代の一般的な住居は、弥生時代に引き続き竪穴式建物ですが、一辺が数十メートルといった掘立柱建物跡も発見されています。掘立柱建物とは、地面に穴を掘り、そこに柱を立てては屋根を支えている建物です。家形埴輪は、豪族の家屋である堀盾柱建物と考えられていますが、当時の一般的な家の広さはたたみ10畳から16畳くらいで、一軒に4人から7人くらい住んでいたと推測されています。
人形埴輪から分かる古墳時代の服装や髪形
人物埴輪は、5世紀前半から中頃に登場し、7世紀初頭まで約200年間制作されていて、巫女、武人、鷹匠、力士などがあります。
埴輪は土偶としばしば混同されますが、土偶が女性を表現しているものが多いのと比較すると、埴輪は役割や職掌がはっきりしているなど写実性が追及されています。その大きな理由として、制作の動機が王権と密接に結びついているからだと推測さています。
人物埴輪は男性像と女性像に分けられますが、こうした埴輪によって当時の人々が着ていた服装が推測できます。
弥生時代は貫頭衣(かんとうい)と呼ばれるワンピースのような服装でした。一方で古墳時代の服装は、男性はズボン、女性はスカートが基本で、現在と同じように上下に分かれている服を着ていたということを人物埴輪が伝えてくれています。
そのほかにも男性像は冠や帽子、武器などを身に付けていて、女性像は首元や手首にアクセサリーを付けています。
この時代、男性も女性も髪の毛は長く、男性は顔の両脇で髪を落花生のような形で結ぶ「美豆良(みずら)」と呼ばれる髪形をしています。一方で女性は江戸時代のもっとも一般的な髷の形で、未婚の女性が結っていた「島田髷」と同じ髷を結っています。
さいごに
「埴輪」と聞いたとき、どれくらいの大きさのモノを思い浮かべますか?
特別展「はにわ」で実際に埴輪を見ると、その大きさに圧倒されます。
棚の上にでも飾れそうな大きさかと思いきや、埴輪と聞いたときに思い浮かべる人も多いだろう「埴輪 踊る人々」は高さ約60センチ、次回の記事でご紹介予定の「挂甲の武人」は5体とも高さ130センチを超えています。もっとも大きな円筒埴輪は高さ242センチ、シカや馬の埴輪は大きいものだと高さ90センチほどもあります。
埴輪は基本的に空洞で、ひも状にした粘土を積み上げていきながら形を整えて造っていきます。ひも状の粘土を丁寧に積み上げていく労力もさることながら、土で造られている以上、それなりに重さもあるであろう埴輪を工房から古墳まで運び、並べる労力を考えると驚嘆に値します。
動物埴輪を見ても、立派な鞍や鈴などで飾り付けられた馬形埴輪もあることから、荷運びようだけではなく高貴な人を乗せるための馬がいたということが想像できます。また、犬や鵜の埴輪には鈴が付けられていることから、きちんと飼育されていたことが推測できます。
埴輪を見ながら、埴輪を造っていた職人や、高貴な人々に仕えていた人の気持ちを想像してみるのも楽しいかもしれません。
(koedo事業部)
- 東京国立博物館 平成館 令和6年10月16日~令和6年12月8日
- 九州国立博物館 令和7年1月21日~令和7年5月11日
【参考】
- 特別展「はにわ」 図説
- 埴輪は語る 若狭徹著 ちくま新書
- 埴輪は語る/高崎学検定講座 若狭徹
- 日本建築の屋根は主に3種類。切妻造・寄棟造・入母屋造/古民家探訪
- 埴輪 男子像―人物埴輪はなぜつくられたのー/京都国立博物館