【はにわ×STEAM】 それぞれの埴輪が持つ意味とは その2 ー挂甲の武人
埴輪は大きく「円筒埴輪」と「形象埴輪」に分けることができ、形象埴輪として家形埴輪、動物埴輪、人物埴輪などが挙げられます。
形象埴輪のなかでもっとも早く登場した家形埴輪は、古墳で行われていた祭祀や葬送儀礼を現代に伝える貴重な資料となっています。一方、人物埴輪は単体として造られたわけではなく、次のようなストーリー性がある群像として造られたと考えられています。
- 王が執り行う祭祀の場面
- 鷹狩や猪狩り、鵜飼などの狩猟場面
- 武威を表す武人や力士の群像
- 王の所有する馬や甲冑
王が執り行う祭祀の場面
人物の埴輪は王が執り行う祭祀の場面や王の葬送の儀を表していて、フル装備の武人の埴輪や巫女姿の埴輪も多く出土しています。
古墳時代は文字として残っている資料は多くありませんが、こうした埴輪から当時の様子を伺い知ることができます。
たとえば、琴を弾いている埴輪も多く出土していますが、現在、確認できている琴を弾いている埴輪はすべて男性像です。しかも埴輪の服装などから琴は高貴な男性が弾く楽器だったと推測されています。
現在、「琴」と聞いて思い浮かべるモノは奈良時代に大陸から伝わってきたもので、弦が13本、長さが6尺(約182cm)、幅が27cmほどあります。平安時代には貴族の楽器として男性にも女性にも親しまれ、源氏物語にも登場します。
奈良時代に日本に伝わってきてから、さまざまな改良が加えられていますが、その大きさは奈良時代から現代に至るまであまり変わっていません。
一方で、埴輪が弾いているのは「和琴」と呼ばれる日本固有の弦楽器で、日本最古の楽器です。琴は日本に古くからある笛や鼓といった楽器のなかでも特別な楽器だったと考えられています。
この時代、日常的に琴を弾いていたのではなく、特別な儀式のときにのみ琴を弾いていた可能性が高いと考えられています。現在でもはっきりしたことは分かっていませんが、死者を呼び戻す「殯(もがり)」の場面で琴を弾いていたのではないかという説もあります。
また、出土している「琴をひく男子」は服装や姿勢に共通点が多いことから、職業として弾いていたのではないかと推測されています。
火葬の歴史
現在の日本では、人が亡くなったときには当たり前のように火葬しますが、カトリック教徒が多い国では、現在でも火葬の割合は低い傾向にあります。
では、日本ではいつごろから火葬されていたのでしょうか。
日本の火葬の歴史は1300年前までさかのぼると言われています。
ただ、そのころ火葬されていたのは皇族や貴族、僧侶など特権階級に限られていたと考えられています。
日本で火葬が全国的に一般化したのは太平洋戦争が終わってからです。1900年ごろは火葬率約30%、太平洋戦争後の1950年ごろになってようやく50%を超え、1970年には70.2%、1980年には91.1%と高度成長とともに火葬率も急増し、現在では、ほぼ100%火葬されています。
武威を表す武人 ―挂甲の武人
縄文時代の遺跡からは狩猟を目的とした小さな武器しか出土しておらず、部族間で争った形跡は見つかっていません。
ところが稲作が大陸から伝わってきたことで貧富の差が生じてきます。部族間で争いが繰り返されようになると、首長で居続けるためには戦闘に勝つことが必須条件となっていきました。そのため、首長は武力を背景に人々を従えるようになり、弥生時代の遺跡からは武器とともに木製の鎧が出土しています。
古墳時代の甲冑は、埴輪から推測できます。
国宝に指定された「挂甲の武人」には、同じ工房で造られたと考えられる兄弟埴輪が4体あります。このうち国宝に指定されている「挂甲の武人」は頭から足先まで鎧を着こんでいる珍しい埴輪です。
「国宝 挂甲の武人」は、頭にかぶった兜には顔を守る頬当てのほかに、後頭部を守るために錣(しころ)と呼ばれる首筋を覆う垂れが付いています。埴輪が身に付けている兜には鋲が打たれていることから、この時代の兜は鉄板を組み合わせて鋲を打っていたことが分かります。
上半身は挂甲、肩には肩甲(かたよろい)、腕には籠手を着け、下半身には腰から太ももまでを防護する草摺(くさずり)を着用。さらに脚にはズボン上の膝鎧(ひざよろい)、その下に脛当て、沓(くつ)まで履いています。
左手に弓、右手に刀を持ち、左手の籠手の上には弓の弦から腕を守る鞆(とも)、背中には矢を入れた靫(ゆぎ)を背負っています。
ほかの4体は背に靫もしくは小漉を身に付け、下半身は防具もしくは袴を履いているなどの差がありますが、弓を左手に持ち、刀を身に付けている姿は共通しています。
「挂甲の武人」は身分の高い人物がモデルであったことは間違いないと考えられていますが、戦闘時の様子というよりも儀式に参加している姿だと解釈されています。
古墳時代の甲冑
「甲冑」と聞くと武士が身に付けているものを思い浮かべますが、日本における甲冑の歴史は古く、弥生時代前期末の遺跡から半島系の武器とともに木製の短甲(たんこう)が発掘されています。「短甲」とは胴を守る短い甲(よろい)のことです。
古墳時代に入ると甲冑に金属が使われるようになります。
前述したとおり、この時代、腰を守る草摺、肩から二の腕を守る肩鎧、腕を守る籠手、足を守る脛当て…と、「甲冑」と聞いたときに思い浮かべるモノすべてがそろい始めています。
「挂甲の武人」の「挂甲」とは、古墳時代の甲冑の形式のひとつで、小札(こざね)と呼ばれる短冊状の板を紐で組み合わせて構成した鎧のことです。小札を横方向につなげることを「綴じ」、縦方向につなげることを「縅し(おどし)」といい、縅し紐を折りたたむと上半身と下半身を覆う小札が重なって収縮します。
古墳時代に用いられていた「短甲」と「挂甲」は、平安時代に成立した「延喜式」などの史料においても記述があることから、いずれも奈良時代を経て、平安時代初頭まで用いられていたと考えられています。
切手の歴史
「挂甲の武人」は、1974年(昭和49年)から平成26年(2014年)まで、額面200円(一時期消費税対応で210円)の普通切手として発行されていました。
「切手」は、もともと一種の商品券を意味し、江戸時代には米切手、饅頭切手など江戸を含む各都市の商家で発売されて庶民に定着しました。
世界で最初の郵便切手は19世紀のイギリスで誕生します。当時のイギリスでは配達距離によって決められた額を受取人が支払っていましたが、1840年、距離に関係なく均一な料金を前払いするシステムが取り入れられました。
その後、1843年にスイスやブラジル、1847年にはアメリカ、1849年にはフランスなど19世紀末にかけて世界各地で切手が発行されています。どの国でも切手には国名を表示するようになりましたが、世界最初の切手発行国であるイギリスでは、現在でも切手に国名が表示されていません。
日本で初めて切手が印刷されたのは、1871年(明治4年)で、このときに発行された切手には向かい合った竜が描かれていました。当時の日本には原版を複製する技術がなかったため、このとき発行された切手の図案はすべて手作業で彫っていたことから、模様が少しずつ違うそうです。
番外編 土偶
日本各地で出土する土偶は、いまでも多くの謎に包まれています。
不可解なのは、ほとんどの土偶は手足や首を失った姿で発見されていることです。1000体以上の土偶が発見されながら、ひとつも完全な土偶が見つからなかった遺跡もあるほどです。
土偶がどのような役割を果たしていたのか、現在でもはっきりしたことは分かっていませんが、土偶は農業の始まりと密接に関わっているという説もあります。
そのほかにも土偶は人間の身代わりではないかという説、祖霊崇拝、安産祈願など多くの説がありますが、いずれにしても土偶は単なる玩具や飾りとして造られたのではなく、呪術的な行為に使われていたと考えられています。
さいごに
「埴輪 挂甲の武人」の国宝指定から50年を記念して、現在、東京国立博物館では、特別展「はにわ」が開催されています。
国宝となった「埴輪 挂甲の武人」が、同じ工房で造られた可能性の高い兄弟埴輪4体とともに、史上初めて一堂に集めて展示されています。5体のうちの1体はアメリカのシアトル美術館が所蔵しており、今回の展覧会のために63年ぶりに里帰りしています。
よく似た姿ではありますが、服装や持ち物などが少しずつ違います。
5体が一同に展示されているため、1体1体を見比べてみるのもおもしろいかもしれません。
- 東京国立博物館 平成館 令和6年10月16日~令和6年12月8日
- 九州国立博物館 令和7年1月21日~令和7年5月11日
(koedo事業部)
【参考】
- 特別展「はにわ」 図説
- 高崎学検定講座 埴輪は語る/若狭徹
- すぐわかる 日本の呪術の歴史 武光誠監修 東京美術
- 箏の大きさ/箏の波
- 和琴/Wikipedia
- 葬送の変化 葬儀の歴史/セレモニーユニオン
- 挂甲/Wikipedia
- 日本の甲冑/日本服飾史
- 切手/Wikipedia
- 博物館ノート 世界最初の郵便切手/郵政博物館
- 切手の歴史を知る/お札と切手の博物館