やっぱり学校は行った方がいい…となった件
高校教師をしていた私にとって、学校とは学力をつけるのみならず人格形成にも大きな役割を果たす場所だという認識はあった。しかし先日、SNSを見ていた私は新たな視点を獲得することとなった。
そこに書かれていたのは、「いい年した社会人なのに、最低限のマナーも身に付けておらず、言葉遣いもなっていない方がいた」という内容だった。ほかの人の反応が気になってそれに対するコメントを見ていくと、「不登校でずっと学校に行ってなくて、そのまま起業した人なんかにそういう人多いよね」という意見が目に留まった。
もちろんみんながみんな、そういった人たちばかりでないことは百も承知だ。しかし、誤解を恐れず言うなら、このコメントは実社会で生きる人たちの素直な感慨だろう。
たとえば中学や高校になると、生徒は職員室に入るときにドアをノックし、「失礼します。〇年〇組の〇〇です。〇〇先生はいらっしゃいますか」と名乗ってから入室するように指導される。この時に「〇〇先生いますか」と聞こうものなら、そばにいた先生から「『いますか』ではなく、なんて言う?」とたしなめられる。
私が通っていた高校はとにかく規律が厳しくて、いかなるときも「5分前集合しておくように」と口を酸っぱくして言われていた。だから、卒業後も同窓生と集まるとみんな集合が早く、「高校のときの習慣って抜けないよね」と笑い合っている。
改めて思ったが、学校は「社会性」をも身につけるところなのだ。
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私自身は時間も「コスト」と考えているので、今のライターの仕事を始めるにあたっては、始めからZoomを使用してインタビューし、極力移動の時間を減らすようにしている。だから、コロナ禍で世の中のオンライン化が急速に進んだことは、ある意味喜ばしいことだと思っている。
先日もテレビで、コロナのためリモート授業になった大学生が、旅をしながら転々と住み込みのアルバイトをしているというのを観て、「今どきの学生生活だな」と感嘆していたくらいだ。もし私が大学生でも、リモート授業になったのをチャンスとばかりに、そういった学生生活を選ぶだろう。
しかし、「中学受験を控えた子どもが、きょうだい児とともに受験1カ月前からリモート授業を受けている」なんて話を聞くと、違和感を持ってしまう。「リモート『授業』」というと、学校を休む後ろめたさを感じさせないが、それがもし対面授業なら、受験のために1カ月も学校を休むなど、親も子も先生もかなりの抵抗を感じるのではなかろうか。
今や世の中全体が不登校や「無理をしないこと」に寛容になり、コロナ禍で「リモート授業」への理解も進んだ。このこと自体は悪いことではない。子を持つ親として、学校がイヤで命を落とすくらいなら、そういった選択肢を選んでほしい。学校と言ったって命がけで行くところではない。
ただ、注意してほしいのは「リモート授業」と「対面授業」は等価・同質ではないということだ。得られるものは大きく違う。そこを認識しておかないと、上述のように社会に出てから「あらら……」となってしまう。何を選択するにしても主体的に考えて選ぶべきで、熟慮もせず易きに流れてしまうと取り返しのつかないことになることもある。
学校に行く、ということは一見面倒でもある。無駄に見えることもある。そして、目上の人に正しい言葉遣いをしたり、時間を守ったり、という行為はどれだけできるようになったかなんて数値化できないし、社会に出てからどのように有益だったかという検証もなされない。けれども、個人的には、「義務教育」と位置付けられているだけあって小学校・中学校の間は学校に行った方がいいと考える。
この記事を書いたひと
木下 真紀子
(きのした まきこ)
コンセプトライター。14年間公立高校の国語教諭を務め、長男出産後退職。フリーランスとなる。教員時代のモットーは、生徒に「大人になるって楽しいことだ」と背中で語ること。それは子育てをしている今も変わらない。すべての子どもが大人になることに夢を持てる社会にしたいという思いが根底にある。また、無類の台湾好き。2004年に初めて訪れた台湾で人に惚れ込み、2013年に子連れ語学留学を果たす。2029年には台湾に単身移住予定。