【親になるということ】手を離す時期――親離れと子離れ
「今日の予定は?」「誰とどこに行くの?」「何時に帰ってくるの?」
あなたはこの質問をお子さんが何歳になるまで繰り返すでしょうか。小学校は当然として、高校? 大学? どんなに頑張っても、学生時代までかなと思われるかもしれません。実際社会人になれば帰りの予定など想像もつきませんし、誰とどこに行くかはいちいち説明するまでもありません(出張などは別ですが)。学生でも、下宿などで家を離れていれば、そもそもこのような問いかけをする機会自体がありませんね。
ところが、お恥ずかしい話、両親と同居している私は、50歳近くになってもこの質問を母から受けます。私自身も結婚して子どもがおりますし、その子どもも二十歳近くなっているにもかかわらず、です。母が思っている帰宅時間までに戻らないと、電車に乗っていようが車を運転していようが、関係なく電話がかかってきます。もちろん電話は出られないので、結果的に家に帰って返事くらいよこしなさい(そんな無茶な!)というお小言を言われることになるのです。この話をすると、親にとって子どもはいくつになっても子ども、お母さま心配なのね、と言われます。ありがたいような、面はゆいようなそんな気持ちになります。
しかし、自分が母親になって感じることは別なのです。母の愛情は否定しませんが、そもそも子どもの一挙手一投足が気になって目を離せないなんて、長く続きません。少なくとも私はそうでした。家の中ではだいぶ安心していても、外に出れば転ばないかな、お友達と会えばけんかをしないかな、いじめられないかな、学校では勉強、ちゃんとわかっているかしら……と、ずっと心配していたら何もできませんよね。
だから私は、
「出かけるときは誰とどこに行くか言う」
「夕焼けチャイムが鳴るまでに家に帰る」
「自転車で学区外にはいかない」
「お金は〇〇円までもっていってよい」
などと家庭内のルールを決めて、子どもが自由に使える時間を増やしていくようにしました。私が気にするのは子どもの動向ではなく、彼らがルールを守っているかどうかです。
もちろん、帰ってきたときの雰囲気や表情で、嫌なことがあったようだ、楽しいことがあったようだ気がついたときは、今日の出来事を聞いたりして、確認をします。向こうが何か言いたそうなときには時間をとって話を聞くようにもしますが、成長とともにルールは減っていき、大学生、高校生になったいまは「今日の予定」として、スケジュールを書くホワイトボード(我が家には居間にあります)に「行先」と「夕飯がいるかどうか」だけ書いてあればよい、という状態になっています。このようにした理由は2点あります。
1点目は、親離れと子離れを、段階を追って行いたかったから。子どもが親離れをするよりも、親が子離れをする方が難しいと聞いていましたし、やはり子どもは可愛くて、いつまでもかまっていたくなります。だから自分のために、「ルールを守る」という行為を使って、子どもの自立とお互いの信頼を、時間をかけて作りたかったからです。
もう1点は、「ルールというものを理解してほしい」という気持ちがあったから。どうも私たちは「ルール」というと、自分の行動を縛る、制限をかけるものだと思いがちです。“親からの命令”と受け取ると反抗したくなりますし、嫌なものに思えます。ですが、本来ルールというのは「自分を守るもの」なのです。小さいうちは知らない危険がたくさんあるので、気を付けなければいけないこと(ルール)がたくさんあります。
しかし、子どもに経験が増えていくと同時に、自分で対処できることも増えるのです。命にかかわることは絶対に避けなければなりませんから、それは「ルール」として残しておくけれど、それ以外のことは失敗をしながら経験値を増やしていかなければなりません。経験があれば、何か物事を始める前に自分で注意すべき点がわかってきますし、トラブルの対応もできるようになります。
親として子どもを「守りたい」と思うならば、するべきは規制ではなく、少しずつ経験を積ませることだと思います。どこで手を離したらよいかわからないという不安もありますが、そのために「ルールを減らしていく」という目に見えるステージを作っていくことで、親も子も安心してステップを踏んでいけるのかなと思います。
この「ルール」で大切なのは、作るときと減らすときです。ルールを作るときは、一方的に親が決めるのではありません(3歳くらいまでは親が決めていいと思いますが……)お父さん、お母さんが何を心配しているのか、なぜこうしてほしい(しないでほしい)と思っているのかについて、子どもとよく話し合います。そのうえでルールを決めます。
ルールを減らすときも、なぜ減らしていいと思ったか、についてやはり話し合います。こういうことが心配だったけれど、あなたはもう十分に対応できるようだから、このルールはなくしましょう、つまり自分で考えなさい、という具合です。親からの言葉で子どもは「信頼」を感じ、信頼を得るに至った自分の行動に「自信」を持ちます。
いま、スマホを所有する子どもが増えていて、親の頭越しに危険性と結びついてしまうことが多くあります。子どもとスマホに関しては、18歳まではフィルタリングをかけるように法律が決まっていますが、その18歳になるまでの間に上手にスマホと付き合っていけるように育てなければなりません。コミュニケーショントラブルに巻き込まれないよう、長時間利用で依存にならないようにと心配事は尽きませんが、そんなときにもこのルール決めは有効だと思っています。
私の母はもともと地元の人間ではなく、「家庭が中心」の人でした。子どもと関連のある人づきあいしかしてきていません。いまは高齢でほとんど家から出ませんので、お友達と会うわけでもなく、父とテレビが話し相手、ということになります。そうすると、必然的に興味関心が家族にしか行かないのです。それは母の人生ですから、娘の私が何か言うものではありませんが、親であっても子どもとは関係のない「自分の世界」を持っていることは大切だな、と彼女を見て思っています。
昔からある名言に、
- 乳児はしっかり肌を離すな
- 幼児は肌を離せ、手を離すな
- 少年は手を離せ、目を離すな
- 青年は目を離せ、心を離すな
(子育て四訓)
というものがあります。ご存じの方も多いでしょう。この言葉、子どもを自立させるための大切な姿勢だと思います。でも、それ以上に思うのは、親が子供から離れるための準備なのかな、ということです。自分の子どもであっても独立した個人です。私たちもまた、他でもない「自分」に戻るためのステップを踏んでいきたいものですね。
この記事を書いたひと
吉田 理子
(よしだ りこ)
1971年生まれ。Windows95発売当時に社会人となり、以降パソコン教室講師やITサポート等の仕事に従事。2005年に企業・学校向けのIT、情報教育を目的とした企業組合i-casket設立。2018年には一般社団法人s-netサポーターズを設立し、主に小中学校にて子供・保護者・教員向けの情報リテラシー、プログラミング的思考に関する講座を行う。そのほか地域ボランティアや主権者教育の活動をボランティアで。趣味は料理と読書。