【STEAM教育③】幸せのカタチが多様化? STEAM教育のフレームワークとは…。

多様な価値の多元化

「IT」という技術は、多次元世界を構成し、表現できる技術です。

私たちは一般に、縦・横・高さの3次元空間は簡単に認識できます。
IT技術で構成する世界は、この縦・横・高さの評価軸を自由に入れ替えられます。あるいは、二次元で表現したグラフの線が交わる点の中に、さらに二次元の表を埋め込むことができます。

ITの世界は、認識できる価値の分だけ簡単に世界を埋め込んで多次元世界を構成させていくことができるのです。

この多次元構成が当たり前に目の前で表現できるようになったせいで、人間の意識が変わったのでしょうか。 幸せのカタチも多次元で構成されはじめています。

このことが私たちの働き方を変えました。

これまでは「年収」という価値軸の最大化を図るように仕事を選び、働き、生活してきました。 しかし今の世の中、「年収」という価値軸だけで仕事を選ぶ人がどんどん減ってきています。

たとえば…。
働き甲斐、生き甲斐、同僚の人間関係、あるいは好きなことを仕事にする生き方。
人のため、世の中のためになっている実感を大切にする働き方。
働くことと、家庭のこと、そして自分の時間とのバランス等々。

幸せのカタチはその人が持つ価値軸の数だけ多元的に構成され、その体積の最大化を図るように生きています。

この変化が教育のカタチを変えようとしています。

同じ「正解」を導けるようにするための画一的な教育では、人によって異なる「多種多様な価値観が多次元に構成されている幸せ」に向かう力を育てられなくなっているのです。

STEAM教育が注目されているのは、この教育手法が正解を導く力ではなく、取り組み方や、課題に向かう行動様式そのものを身に付けさせようとするトレーニング体系だからです。

知識偏重教育という理解は正しいのか?

日本の教育は、知識偏重教育と解釈されてきました。
この「知識偏重」という言葉は、日本の教育の実態に危機感を持った人々の目に「問題」として映った事象を表す言葉として生まれたのだろうと思います。

暗記重視と言われたり、覚えたそばから忘れていく剥落知識と言われたり、詰め込み過ぎと言われたり。

その結果、「ゆとり教育」が生まれました。

「ゆとり教育」は弊害が指摘され、日本の子どもの学力が落ちたと評価され、また子どもが学ぶことが増えてきています。しかし、「ゆとり教育」が本当に目指したものは「ゆとり」ではなかったのではないか…と感じることが多々あります。

それは、STEAM教育を理解しようとすると、「ゆとり教育」で目指したことがチラつくからなのです。

言葉というのは、とても怖い道具です。
選んだ言葉によって、伝えたい思いと、伝わった意味が異なってしまうことなど日常茶飯事です。

私はこの「知識偏重」という言葉も、「ゆとり」と名付けてしまった教育も、本当は問題を意識した人々の言葉の選択ミスだったのではないかと思うのです。

たとえば「知識偏重教育」と言わず、「知識先行教育」という言葉が使われていたら、問題の捉え方が変わっていたのではないでしょうか。

「ゆとり教育」で総合学習の時間が生まれ、教科横断的な学習や、探究的な学習が試行錯誤されました。そこでは「体験」が重要視され、考えることが求められました。これらはSTEAM教育で求められていることとなんら変わることがありません。

しかし「知識偏重教育の弊害」は「詰め込み過ぎ」という認識になり、「ゆとり」という言葉を生み出してしまったために、問題がすり替わってしまいました。

もしこの時「知識先行教育の弊害」という言葉を選択していたら、「体験を先にさせ、体系的な知識を教えるのは後からのほうが考えるということが発生しやすい」という認識になっていたかもしれません。

天動説が当たり前の社会だった時代、地球が動いていることに思い至ることはありませんでした。だから地動説を唱えたコペルニクスは異端者にしか見えなかったのでしょう。

先に体系的な刷り込みが行われてしまっていては、疑問や批判など浮かびようがありません。 知らず知らず、画一的な行動や理解をとってしまっている状態が、日本の教育の問題点なのではないかと思えるのです。

この仮説――日本の教育の問題を定義する言葉が「知識先行教育」である――が正しいとするならば、求められている解決策は簡単だし、選ばれた言葉も変わっていたように思います。

知識先行が問題であるならば、体験先行にすればよいのです。
知識を身につけてから実際に行動してみても、学んだ知識の確認にしかなりません。
体験を積んだあとに、体系的な知識で経験を整理すると、ときに疑問がでるのです。

自分の経験と照らして「おかしい」と感じる部分が生まれてくる。納得いかないことが出てくる。整理しきれない思いがあるのです。

これが「クリティカル・シンキング(批判的思考)」の始まりです。
そしてこれが STEAM教育のフレームワークだと思うのです。

この記事を書いたひと

藤井九曜

田畑 豊史
(たばた とよふみ)

学習塾等教育現場で利用するシステムやアプリケーションを開発してきた文系出身アウトドア派のシステムエンジニア。
趣味は登山。娘が小学生のうちに100名山を一緒に登って回ろうと計画。7歳の娘が現在22座登頂。しかしコロナ禍でペースダウン中。