学校は勉強だけをする場にあらず

2021年1月15日

 先生は怒気をふくんだ声でこう言い放った。「お母さん、このままで困るのはお母さんと〇〇君ですよ」と。

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 幼稚園から小学校1年にかけて、息子はよく友達に手が出ていた。園や小学校から電話があるたびに、私は息子を連れて菓子折を持って相手に謝りに行った。

 小学校1年の担任は、定年間近のベテランの先生だった。入学式のときに「この先生だったら幼稚園のときの若い先生よりも、うまく息子に接してくれるのではないか」と思った。

 しかし、その期待は見事に裏切られた。1学期、2学期と、しだいに電話の口調がきつくなっていく先生。私も家庭で息子に言って聞かせてはいるのだが、なかなか息子の行動は改まらない。もうどうしたらいいのかお手上げで苦しんでいる私のところに、また先生から電話がかかってきた。

 息子が何をしたのかの報告の後、先生が言い放ったのが冒頭の一言である。

 疲れてボロボロだった私の心が、音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。そんなこと言われなくても親の私が一番よくわかっている。一番焦っている。一番悩んでいる。それなのに止めを刺すような先生の一言はとても堪えた。

「先生」というのは児童や保護者と信頼関係を築き、児童の教育にあたるものだと思っていた。しかし、あのときの先生の言葉は、思い通りにコントロールできない子どもへの苛立ちを、その保護者に向けたとしか思えなかった。

 そして迎えた2年生。今度は40代の先生になった。家庭訪問の日、また何か言われるのだろうと暗い気持ちでいる私に、先生は息子の良いところをありったけ並べてくれた。耳を疑い、「去年までは先生から何度もお電話をいただき、とても大変だったんです」と正直に話すと、先生は笑いながら言った。

「お母さん、そういった子の方が後で伸びるんですよ。〇〇君はリーダーシップもあります。こういう子は小学校5年生くらいで担任をしたかったなぁ」

 先生が帰られた後、私は涙が止まらなかった。救われた・・・と思った。その一年間、息子は非常に落ち着いた様子、かつのびのびと学校生活を送っていた。担任の先生によってこんなにも親子で影響を受けるのだと実感した一年間だった。

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 私は以前高校教諭をしていたので、いまでも当時の同僚と話すことがある。そしてあるとき、“AIの台頭でなくなる仕事”の話になった。

 果たしてAIは教師に取って代わることができるのだろうか。この問いに対して、私たちの答えは「NO」だった。

 仮に学校での教育活動を単純に教科指導と生徒指導の二つに分けるなら、小学生は後者の重要性が高く、高校生は前者の重要性が高い。しかしだからと言って、高校生に生活指導が不要というわけではない。高校生と言えども精神的にはまだまだ未熟で、人格形成の途上にあり、生身の人間によるサポートや関わりを必要とする。つまり、年齢が上がるにつれて重要視されるものが変わるだけで、教科指導と生徒指導の両輪が大切であることに変わりはない。

 AIの台頭でにわかに教師の仕事がなくなることは考えにくいが、近年コロナの影響もあり、学校現場におけるIT化が急激に進んでいる。従来教師が担ってきた煩雑な事務作業などが、IT化によって合理化されるのなら喜ばしいことだが、生活習慣の定着や規範意識の育成、自尊感情の向上など、人間の根幹をなす部分に関しては生身の人間による関わりが不可欠だ。

 人と人が関われば、喜怒哀楽の感情が生まれるのは当然のこと。息子には言えないが、私は息子の小学校1年のときの担任を「クソババア」だと思っている。しかし、「クソババア」も2年生の担任の先生も、息子の人格形成に“同様に”関わってくださったことには違いない。学校は多様な価値観に触れる場でもある。「クソババア」と出会ったことは、私たち親子にとってはいい経験だったと思っている。

この記事を書いたひと

木下 真紀子
(きのした まきこ)

コンセプトライター。14年間公立高校の国語教諭を務め、長男出産後退職。フリーランスとなる。教員時代のモットーは、生徒に「大人になるって楽しいことだ」と背中で語ること。それは子育てをしている今も変わらない。すべての子どもが大人になることに夢を持てる社会にしたいという思いが根底にある。また、無類の台湾好き。2004年に初めて訪れた台湾で人に惚れ込み、2013年に子連れ語学留学を果たす。2029年には台湾に単身移住予定。