祝辞をもっと面白く、もっと刺激的に!

普段テレビはほとんど見ない私だが、最近毎日のようにYouTubeを視聴している。YouTubeのいいところは、興味のある動画に出会ったら立て続けに同じ発信者や、同じような内容の動画を観られるところだ。

私はこの春、近畿大学の卒業式(一部入学式)のスピーチ動画に夢中になっていた。なにせ毎年のスピーカーが素晴らしい。2015年の堀江貴文氏に始まり、山中伸弥教授、橋下徹氏、ピース又吉氏、西野亮廣氏、三木谷浩史氏、中田敦彦氏と著名人が並ぶ。

著名人だから内容がいいという訳ではない。とにかく彼らのスピーチ力が卓越しているのだ。自分の実体験から巧みに人生の箴言(読み:しんげん 意味:教訓の意味をもつ短い言葉)を繰り出す、そのスピーチ力は見事としか言いようがない。これらのスピーチは橋下徹氏以外はYouTubeで公開されているので、興味のある方はぜひお子さんと一緒にご覧いただきたい。

ちなみにNewsPicks(ソーシャル経済メディア)のYouTubeでこの春公開された、落合陽一氏、千原ジュニア氏、三浦瑠麗氏、堀江貴文氏の大学生に向けた祝辞もかなり聴き応えがあった。

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思えば私は一般の方よりも多くの祝辞を聞いてきた。なぜなら私の前職は高校教諭で、卒入学式のたびに複数の方の祝辞を聞いてきたからだ。しかし、いま思い返しても心に残っている祝辞は一つもない。現場を離れたから言えることだが、みなさん手垢のついたお祝いの言葉に始まり、当たり障りのない内容で終わる。お粗末なことこの上なかった。あんな形式だけの祝辞は時間の無駄にしかならないのだから、いっそ廃止したらいいのにとさえ思う。

一般の祝辞がなぜあんなにも面白くないのかを考えてみた。考えられる理由は二つ。一つ目は皆が「ルーティン」で話しているからだろう。校長先生・PTA会長・同窓会会長にとって、祝辞は毎年やってくるルーティンにしか過ぎない。毎年同じ話をする人もいるくらいだ。二つ目は彼らが、語るべき刺激的な人生を送っていないからだろう。例えば堀江貴文氏のような考え方や言動をする校長先生を私は見たことがない。

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大学で文学を勉強していたとき、明治の小説は「人生の教科書」のような位置づけだったと習った。長く続いた武士の世が終わり、開国した日本の若者はそれまでの価値観が瓦解し、人生の指針を失っていた。そのような折、いわゆるエリートが新しい日本の礎を作るため国費留学生として海外の文化や学問、社会制度などを吸収し、それを日本に持ち帰った。そして、一部の留学生たちは、悩める自国の若者に向けて、新しい生き方を小説を通じて広く伝えた。

卒入学式における祝辞もそれに近い意味合いがあるように思う。近年の社会の変化は、私が学生だったころとは比べ物にならないくらいスピードが速い。将来の選択肢も多様化し、終身雇用が崩れつつあるいま、新しい生き方の指針を見つけられない学生も多くいるだろう。それなのに祝辞が旧態依然としているのはいただけない。

祝辞とは人生の門出に送る餞(読み:はなむけ 意味:旅立つ人へ贈る金品や言葉)である。これから新生活を始める若者たちに、これからの実生活に役立つヒントを人生のちょっと先を行く先輩として話してほしいのだ。小難しい話など必要ない。実際前出の著名人たちも高遠な話をしてはいない。身近に起きた出来事やご自身がうまくいかなかった経験などを飾り気のない口調で語っている。そこに聴き手と変わらない等身大の姿を見出すからこそ、聴き手の共感が得られるのだ。

学問で得られる知識も大事だが、人生で悩んだときにふと思い出すのは、いつか誰かが言っていた言葉だったりする。そして、それが人生の転機になったり、救いになったりする。

この記事を書いたひと

木下 真紀子
(きのした まきこ)

コンセプトライター。14年間公立高校の国語教諭を務め、長男出産後退職。フリーランスとなる。教員時代のモットーは、生徒に「大人になるって楽しいことだ」と背中で語ること。それは子育てをしている今も変わらない。すべての子どもが大人になることに夢を持てる社会にしたいという思いが根底にある。また、無類の台湾好き。2004年に初めて訪れた台湾で人に惚れ込み、2013年に子連れ語学留学を果たす。2029年には台湾に単身移住予定。