日本社会の二極化が他人ごとではないワケ
先日、知り合いと話しているときに児童養護施設の話になった。そこで私は、ふと児童養護施設で生活している子どもたちの学習環境が気になった。
児童養護施設とは、さまざまな事情により家庭で養育できなくなった子どもが生活する場所である。経済的に決して余裕のない環境の中で生活している子どもたちが、1人1台のインターネットに接続できる機器を持ってオンライン授業を受けられているのだろうか。
調べてみると、コロナの影響で急にオンライン化が叫ばれ出した時点で、現場は混乱をきたしており、それにいち早く気づいたNPO法人が児童養護施設のオンライン環境を整える支援に乗り出していた。しかし、機器の台数はもちろん、子どもたちが集中して授業に参加できる個室に近い環境整備までは、まだまだ十分ではないようだ。
コロナが収束したとしても、このニューノーマルの流れは決して逆戻りしないと言われている。学校も塾もビジネスも、リアルとオンラインのハイブリットで行くだろう。むしろ5Gの普及にともない、その流れはますます加速すると予測される。
そうすれば、児童養護施設の子のみならず、経済的に厳しい家庭の子や、障害を持つ子はますます学びの機会を奪われていくのは火を見るより明らかだ。
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コロナ禍での最初の緊急事態宣言のとき、息子の小学校でも自宅待機を言い渡された。慌てて職場のシフトを変える羽目になった保護者に比べたら、普段から自宅でリモートワークをしている私は負担が少なかったかもしれないが、それでもストレスで髪が抜けてしまった。
その後学校は再開されたが、もしものときに備えて不定期のオンライン授業が始まった。ほっとしたのも束の間、いくら機器があっても小学生の子どもが一人でオンラインに接続することは難しく、はじめのうちは親がつきっきりだった。
個人差はあるだろうが、私は自宅でたった一人の子どもの面倒を見るのでさえ大変だった。それが異年齢の複数の子どもがいる施設の職員さんのストレスたるや、いかほどだったろうか。しかし、私はこのようなことに思いをいたすことがなかった。自分の家族や仕事に必死で、視野や想像力が欠けていたことを恥ずかしく思う。
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今日、私たちの生きる世界は、と言うより日本は二極化している。子どもの学力が親の経済力に比例するということはもはや周知の事実だが、コロナによる貧困が進む中でこの差はますます顕著になるだろう。
そのような社会的問題に対して、私一個人がすぐに何かをすることは不可能だ。しかし、問題提起をすることはできると思って今回このトピックを選んだ。
私たちは日常における様々な問題を抱えているが、それよりも大きな問題を抱えている人もいる。下を見て満足をしろと言うのではない。自分たちが大変であっても、さらに大変な人たちを思いやる社会でありたいと思っているだけだ。
コロナ禍になって、自己責任論がさらに叫ばれるようになり、共助の精神が失われつつあるように感じる。しかし、これからの日本は「自分さえよければいい」が通用しない世の中になる。
なぜなら、今後日本の人口がさらに減少する中で、いまを生きる子どもたちは貴重な人材でもあるからだ。我が子だけが良くても、日本の人材が枯渇すれば社会も経済も立ち行かなくなる。そうすれば、おのずと我が子も立ち行かない状態に陥る。そんな世の中がもうすぐそこまでやってきているのだ。実際に先進国の中でも日本の物価上昇率はかなり見劣りがする。日本が年々国としての力を失っているということに、どれくらいの人が危機感を覚えているのだろうか。
「情けは人の為ならず」(人に対して情けを掛けておけば,巡り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味)。愛する我が子のためにも、様々な環境にいる子どもたちにもっと思いをいたそう。
この記事を書いたひと
木下 真紀子
(きのした まきこ)
コンセプトライター。14年間公立高校の国語教諭を務め、長男出産後退職。フリーランスとなる。教員時代のモットーは、生徒に「大人になるって楽しいことだ」と背中で語ること。それは子育てをしている今も変わらない。すべての子どもが大人になることに夢を持てる社会にしたいという思いが根底にある。また、無類の台湾好き。2004年に初めて訪れた台湾で人に惚れ込み、2013年に子連れ語学留学を果たす。2029年には台湾に単身移住予定。