タブレット教材の功罪

2021年1月15日

 息子と同じ年の子どもがいる知人と通信教育の話になった。同じ通信教育だが、知人の家はタブレット教材を利用し、我が家は紙の教材を利用している。

 知人が言うには、子どもは楽しんでやっているが、はっきり言ってあれは意味がない。間違えたところをやり直すにしても、すでに選択肢が狭められているので、子どもは簡単に、時には勘で正解を選ぶのだと言う。意味がないと思うなら止めればいいと思うのだが、やはり何かさせていないと不安なのだろう。

 一方、紙の教材を使っている我が家の息子。間違えた問題があれば親が横についてわかるまで考えさせ、どうしてもわからないときにはヒントを出したり、一緒に解説を読んだりして正解を導くようにしている。

 その話をすると、知人がそんな時間はないと言う。我が家も共働きで、平日は宿題を見るのが精いっぱいなので、週末だけ通信教育の問題の振り返りをしている。ただ、家庭の事情や時間の使い方は人それぞれなので、それ以上は何も言わなかった。

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 コロナの影響もあって、いよいよ息子の公立小学校でも児童全員に一台ずつのパソコンが貸与されることになった。

 休校という事態になれば、授業はもちろん、宿題もオンラインでということになるかもしれない。それはそれで仕方のないことだし、そういった時流に抗うつもりもない。オンライン授業が始まったおかげで、もともと学校に足が向かなかった子どもが授業に参加するようになったというニュースも見た。

 ただし、すべてをデジタル学習化するとなると話は別だ。

 前述のタブレット教材は、解答から答え合わせまでの時間が短いため、反復学習には適している。親や先生もそこまで時間に余裕があるわけではないので、子どもが一人で進められる学習方法としては取り入れる価値がある。

 一方で、タブレット教材はじっくり考えるような学習には不向きだ。

 例えば国語の文章問題は、答えとなりうる本文に線を引きながら考える。もちろんタブレットでも線は引けるのだが、紙と違って一瞬「線を引く作業」に気を取られてしまう。せっかく集中しているところをたった一瞬でも違うことに気が取られるというのは望ましくないし、そもそもタブレットの本文に線を引こうとする子どもなどいないだろう。結果として、文章の読み取り方が浅くなってしまう。

 算数や数学もしかり。単純な四則計算以外はすべて途中式がないと解答はできないはずだが、タブレットにその余白はない。もし別画面で計算でもしようものなら、これまた「入力作業」に気を取られることになるので、わざわざタブレットで途中の計算をする子どもはいないだろう。結果として、当てずっぽうで選択肢の中から最もそれらしい答えを選ぶ子どもが出てきてもおかしくない。

 人間の五感というのは意外にアナログだ。こういった学習においては、紙のほうが圧倒的に利便性に優れている。集中力を途切らせることなく、自分の思考の軌跡を目で追い、確認することができるからだ。それはたとえ選択問題であったとしても必要な過程と言える。そして、この過程の繰り返しこそが学習の本質なのだ。

 そもそも、思考力は指先一本で養えるほど単純なものではない。そして一朝一夕に身に付くものでもない。極端な例かもしれないが、経典を何度もコピペしたからと言って、写経したことにはならないのと同じである。

 大切なことは、デジタル教材が万能ではないことを知り、その特性に応じて適切な場面で使用することだ。それができれば、デジタル教材は子どもの学習においてこの上ないメリットをもたらしてくれるだろう。


■この記事を書いたひと
木下 真紀子(きのした・まきこ)
コンセプトライター。14年間公立高校の国語教諭を務め、長男出産後退職。フリーランスとなる。教員時代のモットーは、生徒に「大人になるって楽しいことだ」と背中で語ること。それは子育てをしている今も変わらない。すべての子どもが大人になることに夢を持てる社会にしたいという思いが根底にある。また、無類の台湾好き。2004年に初めて訪れた台湾で人に惚れ込み、2013年に子連れ語学留学を果たす。2029年には台湾に単身移住予定。