【親になるということ】あえて拒否する
先日、子どもから相談がありました。大学生になり、社会的な活動を行ってみたいと考えた彼は、市民活動団体を立ち上げようと思い、お友達に声をかけている、そして私にも一緒にはじめてもらえないかというのです。
私自身は20年近く市民活動をしており、団体を何回もつくっていますから、彼の提案に乗ることは簡単です。
しかし、ちょっと考えて、断ることにしました。
そこに母親の私が入ってはいけない、「いつでも悩み事は聞くから、自分たちでやってみなさい」と、伝えました。
彼の、こういう話に対して拒否をしたのは、これが初めてでした。もう大学生なのだから当然と思うかもしれません。
しかし、初めての活動で不安に思う気持ち、それに対して親として何かしてあげたいと思う気持ちは、子どもがいくつになっても変わりません。しかしだからこそ、私はあえて拒否をしました。
拒否は、「拒絶」とは違い、人から何か提案されたり、お願いされたりしたときに、そのことを断り、受け付けないことを意味します。
しかし、断ったといってもその対象となるものに対して嫌悪感や苦手意識などを持っているワケではありません。単に自分は受け入れられないという姿勢に対して使うのです。
自分が受けないだけで、そのことに対する感情は含みません。
これに対して拒絶は、「相手からの提案や要求を受け入れないこと」です。ただ断るだけではなく、そのこと自体や相手に対して感情的になるときの表現ですから、「絶対にそれをしたくない」という意思が明確に伝わります。
私たちが子どもに対して行う行為としては、「拒絶」ではなく「拒否」が望ましいと思います。
今回の私のように大きくなってからではなくても、子どもの自立を促し、親が離れるという場面は多いでしょう。その中で、子どもが望むことを断るというのは親としてかなり難しい選択になると思います。それでも「あえて」の拒否をお勧めするのは、それが子どもの心や体の成長につながるからです。
以前、モンテッソリーの著書でこんな言葉を見つけました。
「3歳になってもまだ子どもを抱っこしたりしていると、発達が助けられるどころか阻害されてしまいます。子どもが機能の自立を獲得したその瞬間から、もうこの子にとっては、更に引き続き手を貸してやろうとする成人が障害になるのです。」
(『創造する子供』マリア・モンテッソーリ著 武田正實 訳 エンデルレ書店)」
この、最後の引き続き手を貸してやろうとする成人が障害になるという言葉。モンテッソリーの言葉はここでは子どもをいつまで抱っこするか、というたとえで出されていますが、子どもがもっと大きくなってからでも十分に当てはまることです。
「まだ小さいから」「できないから」と親が手を貸し、何もさせないこと自体が子どもの欲求不満、精神的な飢えとなり、また自己肯定感の低さにつながっていきます。自己肯定感が低いと、子どもは
- 褒められても喜ばない
- 怒られると自分を責める
- 挑戦することを嫌がる
というような態度をとるようになります。
落ち込むよりも「次は失敗しないように頑張ろう」と自分でモチベーションを高め、自分から挑戦しにいく勇気を持つためには、親の方から意識して手を放す訓練をしていくことが重要だと思います。
ただ、その際に気を付けるのが上記の「拒否」と「拒絶」の違いです。
子どもが親から「拒絶された」と感じてしまっては、今度は別の問題が生じます。あくまでも「拒否」を。そして理由を伝え、協力するために、理論、捉え方を取り入れます。いつでも「困ったことがあったらいつでも相談にのるからね」ということを話し、安心させてください。
小さな拒否と話し合いを繰り返すことで、子どもは自己肯定感が高くなり、徐々に独り立ちしていくのだと思います。
この記事を書いた人
吉田 理子
(よしだ りこ)
1971年生まれ。Windows95発売当時に社会人となり、以降パソコン教室講師やITサポート等の仕事に従事。2005年に企業・学校向けのIT、情報教育を目的とした企業組合i-casket設立。2018年には一般社団法人s-netサポーターズを設立し、主に小中学校にて子供・保護者・教員向けの情報リテラシー、プログラミング的思考に関する講座を行う。そのほか地域ボランティアや主権者教育の活動をボランティアで。趣味は料理と読書。