【古代メキシコ×STEAM教育】交易と戦争 ~人身供犠とは~

マヤ文明は、現在のメキシコ南部およびグアテマラ、ベリーズを中心に、ホンジュラスやエルサルバトルの一部を含む約32万4000平方キロメートルの地域に栄えた文明です。

日本の総面積は約37万8000平方キロメートルですので、マヤ文明が栄えた地域、いかに広かったかが分かります。

それだけ広い地域をまたがる文明だったにも関わらず、古代メキシコでは「車輪」が実用化されませんでした。

馬や牛といった大型の家畜が存在しなかったので、荷車が発達しなかったと考えられます。

車輪の歴史

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車輪(イメージ)

最初の「車輪」がいつごろ発明されたのか正確にはわかっていません。
しかし車輪の文化は意外と古く、2022年、スロヴェニアの遺跡から5200年ほど前の車輪と車軸が発見されています。

原始的な車輪は半円状の木の板を円形につなぎ合わせ、その中心に心棒を取り付けたものでした。それが、やがて木の車輪の外周を動物の皮で覆い、銅の釘で固定するなど工夫されるようになります。鉄を使った車輪が使われ始めたのは古代ローマ時代。それ以降、1900年もの間、鉄のタイヤの時代が続きます。

日本で車輪が最初に利用されたのは、5世紀ごろではないかと考えられています。
現在、確認されている日本で最も古い車輪は、2001年に発掘された7世紀後半の飛鳥時代のものです。

交易 ~主な交易品~

古代メキシコでは車輪文化こそ発展しませんでしたが、物資の輸送や人の移動のために道路を整備し、活発に交易を行っていたことが分かっています。

マヤ文明の栄えた地域は大きく「マヤ低地北部」「マヤ低地南部」「マヤ高地」の3つに分けることができます。

それぞれの地域の主な交易品は次のとおり。

地域ごとの主な交易品

  • マヤ低地北…塩
  • マヤ低地南部…カカオなどの熱帯雨林の産物
  • マヤ高地…黒曜石

厚生労働省は1日の塩の摂取量は男性で7.5g/日、女性で6.5g/日と設定、WHOでは男性も女性も5.0g/日を目標値としています。

ただ、これはあくまでも現代の指標です。メキシコは高温多湿の地域です。畑仕事も家事も重労働。移動手段がほぼ徒歩に限られていた古代メキシコでは、現代よりも運動量が格段に多かったはずです。

つまり、1日に摂取する塩の量は、もっと多かったのではないかと推測されます。

1979年にユネスコ世界遺産にも登録された、紀元前4世紀から9世紀ごろにかけて繁栄していた大都市「ティカル」は、最盛期である8世紀ごろには5万人前後の人が暮らしていたとされています。この人口を支える「塩」は、当然、ティカル内だけで賄うことはできません。

そのため、交易によって「塩」を得ていました。近年の研究では、「魚の塩漬け」が貴重な交易品としてマヤ文明圏で行き交っていたことが分かっています。スペイン征服直後のユカタン半島で活動したフランシスコ会の聖職者ディエゴ・デ・ランダの『ユカタン事物記』には、マヤ人が魚を非常においしい塩漬けにしていたという記述が残っています。

土器から分かる交易の痕跡

「農業と食物、塩」でも触れたように、マヤの人々は狩猟でウサギやオジロジカなどの野生動物を射止めタンパク質を補っていました。川や海の近くでは魚や貝も重要なタンパク源で、干されたり塩漬けされたりしたものが内陸部まで運ばれていたと考えられています。

1987年にユネスコ世界文化遺産に登録された「テオティワカン」は、現在のメキシコシティから北東に約50キロの地点にあり海から遠く離れていますが、このテオティワカンの住居址「ラ・ベンティージャ」内で鳥形土器が出土しています。

古代メキシコ展「鳥形土器」
鳥形土器 テオティワカン文明、250~550年
テオティワカン、ラ・ベンティージャ出土 メキシコ国立人類学博物館蔵
©Secretaría de Cultura-INAH-MEX. Archivo Digital de las Colecciones del Museo Nacional de Antropología. INAH-CANON

この鳥形土器と同時に多くの貝製品が見つかっているため、メキシコ湾との交易を行っていた商人の墓地ではないかと言われています。

ほかにも、カカオの飲料用に使われたチョコレートカップと呼ばれる土器には、宮殿における外交犠礼の様子が描かれています。

メキシコ展:チョコレートカップ
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」展示 
《円筒形土器》マヤ文明 600~850年 出土地不明 メキシコ国立人類学博物館蔵

古代メキシコに陶器・磁器が存在しない理由は?

土器の歴史は古く、世界最古と考えられている土器のひとつは、青森県大平山元遺跡から出土した約1万6500年前のものです。

土を焼くと固まることを知っていた古代の人々は、土でお椀の形のようなものを作り、それを何メートルもあるような大がかりな焚火の中で焼いたと考えられます。ただ、この方法では600度から800度くらいまでしか火の温度があがりません。

陶器の焼成温度は1100度~1200度、磁器の焼成温度は1300度前後です。

古代メキシコに陶器や磁器が存在しないのは、800度までしか火の温度を上げられなかったからです。

一方、中国では紀元前5000年ごろに「陶器」が登場します。
陶器の最大の特徴は釉薬がかかっていること。この釉薬は偶然の産物だと言われています。燃料に使っていた木材や枯草の灰がたまたま器にかかり、火の温度が1000度を超えたなかで灰自体が溶けて性質がガラス質の膜になったと考えられています。

大陸から火の温度を上げる方法が伝わった日本では、益子焼や唐津焼などを代表とする陶器、有田焼・九谷焼・清水焼などを代表とする磁器など、さまざまな器が古代から延々と現在に至るまで作られ続けています。

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備前焼(イメージ)

なお、火の温度を800度以上に上げられなかった古代メキシコには「鉄」も存在しません。鉄の融点は約1500度、沸点は約2800度。1200度から1500度くらいで熱すると鉄はドロドロに溶けていきます。

「火」とは…

「火」とはなんでしょうか。

物質と酸素が結びつくことを「酸化」といいます。この酸化反応がある条件で起こると熱と光を発します。このとき、私たちが感じる光と熱の正体が火です。

「火」という現象を継続するためには、酸化のスピードを維持する必要があります。
その現象に必要なのが「熱・可燃物・酸素」の3つです。

火の温度を上げるためには、外の冷たい空気に触れないこと、そして酸素を送り続けることが必要です。

つまり、陶器や磁器は土器とはちがい、窯の中で焼いたため火の温度があがったのではないかと考えられます。

都市国家間戦争と花の戦争

アステカでは、「戦争」も交流手段のひとつとして挙げられます。
アステカが行った戦争には、大きく分けると2種類ありました。

  • 都市国家間の戦争…貢物品の獲得を目的とした侵略戦争
  • 花戦争…生贄の獲得のみを目的とした犠式的戦闘

都市国家戦争

都市国家戦争で戦っていたのは、専門職としての戦士や兵士ではなく、支配層の子弟や志願した庶民の男子です。専門職として戦っていたわけではありませんが、階級制度は存在しており、捕獲した捕虜の数によって昇格するシステムになっていて、装備できる武器や装束で差別化を図っていました。

また、功績をあげた者に対して敗戦国の領地や威信財などが賞与として与えられました。

16世紀にスペイン人が馬を持ち込むまで、古代メキシコには機動力のある大型の家畜はいませんでした。つまり、戦闘スタイルは基本的に人vs人の白兵戦です。金属器もなかったため、火をつけた矢で町や神殿に火事を起こさせる攻撃が常套手段でした。

花の戦争

アステカでは、戦士の訓練のためや太陽神への生贄の獲得のために犠礼的戦争が制度化されていました。
「花の戦争」と呼ばれたこの戦いの大きな特徴は、あらかじめ日時を決めたうえで、協定を結んだ近隣のアステカ系民族の都市国家と戦争していたことです。

「花の戦争」が始まった理由としては諸説ありますが、アステカ史上でも記録的な自然災害が多発した1440年代後半から1450年代初頭は、神々の加護を受けるために多くの生贄が必要となったことから始まったという説があります。

人身供犠

「人身供犠(じんしんくぎ)」とは、簡単に言えば生きている人間を犠式を通じて殺し、その血や肉を神にささげる行為のことで、アフリカやインド、中国など世界各地で行われていました。

メソアメリカにおける人身供犠の起源は古く、少なくとも古典期(250年~950年ごろ)にさかのぼるとされています。たとえばベラクルス文化のエル・タヒンの球戯場に刻まれた浮彫には死の神が生贄の心臓にナイフを振り上げている光景が描かれています。

古典期マヤの人身供犠は、王としての正統性を神々に認めてもらうために、戦争で捕らえた人々を人身供犠に供していたと考えられています。同時に民衆に自分の力を誇示するためのパフォーマンスであっただろうと考えられています。

神々に捧げる生贄を得る方法として、弓矢を使ったり、胸を割いて心臓をつかみ出したり、「生贄の泉」に投げ込んだりなどがさまざまな手段が伝わっています。

チチェン・イツァにある「生贄の泉」は直径約66m、高さ20mの垂直の岸壁に囲まれていています。マヤ人は干ばつの年に、生きている人間を泉に投げ込んで捧げたり、金や銀の財宝を泉に投げ込んだりして雨が降ることを願ったといいます。

1885年に行った調査では、18か月から12歳に至る子どもの骨が21個(男子が13個、女子が3個)見つかっています。

なお、アステカにおいて行われていた人身供犠は、国家的行事としてほかとは比較にならないほど大々的に行われていました。

チャクモール

チャクモールとは、古典期終末から後古典期にかけてメソアメリカ全域でみられる、仰向けの状態で肘をつくような姿勢で上半身を起こし、顔を90度横へ向けて、両手で腹部の上に皿や鉢のような容器を抱えて膝を折り曲げている人物像のことをいいます。

古代メキシコ展「チャクモール像」
《チャクモール蔵》マヤ文明、900~1100年
チチェン・イツァ、ツォンパントリ出土
ユカタン地方人類学博物館 カントン宮殿蔵
©Secretaría de Cultura-INAH-MEX

チチェン・イツァの「戦士の神殿」のもののほか、メキシコ北部からホンジュラス、エルサルバトルまで広い範囲の遺跡で確認されています。

チャクモール(レプリカ)
BIZEN中南米大使館蔵 《チャクモール像(レプリカ)》アステカ 1325年~1521年
メキシコ中央高原 メキシコシティ出土

チャクモールは死んだ戦士を象徴し、神へ生贄などの供物を運ぶ存在と考えられていて、チャクモール像の上で人身供犠の犠式が行われたり、チャクモールの持つ皿の上に取り出された心臓が太陽への捧げものとして置かれたりしたと言われています。

古代マヤに伝わる神話

古代メソアメリカで人身供犠が行われていた理由のひとつに、古代マヤに伝わる神話が挙げられます。

古代マヤに伝わる神話では、太陽神(ウイツィロポチトリ)には4つの過去があり、現在は5つ目の太陽の世界であるとされています。太陽神は夜になると無数の星と戦わなければならず、夜ごとの戦いに勝って初めて毎朝太陽が昇ると考えられていました。

古代メキシコ人は、太陽神が負けると現世が消滅すると考えていたため、太陽神には活力となる新鮮な血を捧げ続けなければいけない…と信じていました。

さいごに

古代メキシコでは、車輪が実用化されていません。
ただし、車輪のあるオモチャは発掘されています。

ダイナマイトや飛行機のように暮らしに浸透したばかりではなく、発明者自身も思っていない方向に進化を遂げることがある一方で、発明されても暮らしに浸透しなかったものがあると思うと不思議な感じがします。

古代メソアメリカで行われていた人身供犠は、きちんと理由があって国家的事業として行うこともある「犠式」でした。「生贄」と聞くと血生臭くゾッとしてしまいますが、言葉に惑わされることなく、その背景もきちんと理解することが大切です。

今回は、古代メキシコをSTEAM教育で読み解き、日本史や化学、美術史などにも触れています。少しでも興味を惹かれる部分があったら、ぜひ、ご自身でもっともっと深掘りしてみてください。

(koedo事業部)

BIZEN中南米美術館

  • 展覧会名:「冒険!マヤ文明」展 エピソード2
  • 期間:2023年3月28日~10月9日(月・休) 終了しました
  • URL::https://www.latinamerica.jp
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」

  • 東京国立博物館 平成館  2023年6月16日(金)~9月3日(日) 終了しました
  • 九州国立博物館(福岡会場)2023年10月3日(火)~12月10日(日) 終了しました
  • 国立国際美術館(大阪会場)2024年2月6日(火)~5月6日(月・休)

【参考】