【古代メキシコ×STEAM教育】古代メキシコで天文学が発展した理由、マヤ暦とは?

2024年2月7日

私たちは、年末になると当たり前のように翌年のカレンダーを手に入れます。では、暦はいつごろ誕生したのでしょうか…。

「暦」は、狩猟文明から農耕文明に移る過程で誕生しました。

農耕を行ううえで計画的に食物を生産し、収穫・貯蔵する必要があることに気づいたからです。つまり、生活をするうえで必要に迫られて暦が誕生したということです。

暦には大きく分けて3種類あります。

暦の種類

  • 太陽暦…太陽の動きをもとにした暦(例:グレゴリオ暦)
  • 太陰暦…新月から次の新月までを1ヶ月(29日または30日)とし、12ヶ月で1年とする暦。世界でもっとも古 い暦。1年は354日。(例:ビジュラ暦)
  • 太陰太陽暦…太陰暦をもとに太陽暦との誤差(1年で11日)を埋めるために閏月を加えて調整した暦。(例:日本の旧暦・ヒンドゥー暦)

マヤ文明で天文学が発展した理由とは…

イメージ写真
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マヤ文明は天文学が発展した文明で、火星や金星の軌道も計算し、極めて正確な暦を用いていました。

では、なぜマヤ文明で天文学が発展したのでしょうか。

マヤ文明に限らず、エジプト文明やメソポタミア文明など天文学が発展した地域には、農業に季節の要素が大きく関わっています。

一方、農業に暦があまり関係しなかったヨーロッパや、都市生活者の文明だったイスラム世界では天文学があまり発展しませんでした。これらの地域では、16世紀に入って航海術が発展したことによって、天文学も発展しています。

マヤ文明が栄えた地域は農業が盛んでしたが、ほかの古代文明とは違って大きな河川が近くにありません。代わりに「セノーテ」と呼ばれる地下水脈に頼っていました。地下水脈なので、当然のことながら季節によって水量が増減します。

この水量の増減を予測するために、古代メキシコでは農業に天文学が大きく関わっていたと考えられています。

なお、古代メキシコにおいて天文学が発展していたことは遺跡からも推察できます。

ワシャクトゥン遺跡

ワシャクトゥン遺跡
ワシャクトゥン遺跡

ワシャクトゥン遺跡は、現在のグアテマラ北部にある「ティカル遺跡」よりさらに北に約24キロ先に位置するティカルと並んで先古典期に遡るマヤ遺跡です。

1924年、このワシャクトゥン遺跡にある南北に3つ並んだ建造物が、観測用の建造物から見たときに「冬至・夏至・春分・秋分」の太陽の位置を知るために意味があることが分かりました。

ワシャクトゥンでは専門の天文学者がいたわけではなく、書記が天体観測も行っていたと考えられています。

テオティワカン遺跡

太陽のピラミッド
太陽のピラミッド ©Secretaría de Cultura-INAH-MEX

「テオティワカン遺跡」は、現在のメキシコの首都であるメキシコシティから、北東約50キロ先に位置していて、紀元前2世紀から6世紀ごろに栄えたテオティワカン文明の遺跡です。

このテオティワカン遺跡にある「太陽のピラミッド」の頂上には、かつて神殿が立っていたと考えられています。年に2回、夏至と冬至の日に太陽がピラミッドの真上に来るように、そして真正面に沈むように設計されています。

チチェン・イツァ遺跡

チチェン・イツァ遺跡
ククルカン神殿

マヤ文明の遺跡である「チチェン・イツァ」には、マヤの最高神ククルカンを祀った「ククルカン神殿」があります。

古代メキシコ共通の神」でも触れたように、ククルカン神殿は高さ30メートル、4面に合計365段の階段(太陽暦)、52面の壁面(マヤ世紀の年)からできています。また、ピラミッドの各面は9層構造で、各層は階段を境に2層に分けられているので合計18層となり、マヤ暦の1年=18ヶ月を表しています。

最近の研究で、ククルカン神殿が天文台の役割を果たすために太陽の方角を向いていて、マヤ時代の学者たちが暦の調整を行っていたことが証明されています。

ククルカン神殿の北側の階段の最下段にはククルカンの彫刻があり、春分の日と秋分の日の太陽が沈む夕方4時ごろ、ピラミッドは真西から照らされます。このとき、9層のピラミッドの成す影が合体し、蛇頭をしつらえた中央階段の側面に胴体の形となって現れます。太陽の動きによって変化する光と影が、あたかも蛇が身をくねらせているようで、『ククルカンの降臨』と呼ばれています。

この現象は、2005年にはアメリカ航空宇宙局「NASA」が関心を向けるほど、大規模なイベントになっています。

これは、偶然の産物などではありません。
現在、世界標準とされる太陽暦では1年が365.2422日。一方、マヤ暦では1年が365.2420日とほとんど差がありません。マヤ文明で天文学がいかに発達していたかが分かります。

マヤ暦とマヤ文字

「マヤ文字」でも触れていますが、メソアメリカ文明の文字の起源は、紀元前1000〜800年頃と言われています。

マヤ文明の遺跡から発掘される、碑文の多くを占めているのは暦です。
マヤ人は時の計算に没頭していたのではないかと言われるくらい、いろいろな暦を使って時の流れを定めようとしていました。

発見されているマヤ暦には周期や日数が異なる暦が多数ありますが、その代表的な暦として次の3つの暦が挙げられます。

マヤの代表的な暦

  • ハアブ暦(365日暦)
  • ツォルキン暦(260日暦)
  • 長期暦

マヤ文明の古典期後期(600年~800年ごろ)には、260日暦と365日暦の組み合わせで日付を表していました。

この組み合わせは260日暦の「ある日」を基準にしたときに、365日暦では常に同じ4つの日付が対応しています。そのため、碑文の間違いを正すときばかりではなく、碑文の月日の一部が風化していたり、破壊されたりして読めなかった場合にも容易に推測でき、マヤ文字の解読に役立っています。

ハアブ暦

「ハアブ暦」は、農作業を管理するための暦で天体観測から導きだされた暦です。

ハアブ暦は1ヶ月が20日で18ヶ月あり、これに冬至に向かう最後の5日間(ワイエブ)を足して365日を1年としていました。

ワイエブは太陽の力が一番弱まる日として、この日は髪の毛や体を洗ったりせず、肉体労働もしませんでした。

ハアブ暦には「うるう年」がないため、季節と月日は少しずつずれていきます。

しかし、マヤ文明が栄えた地域では雨季や乾季の時期やセノーテの水量を予測する必要はあっても、作物を植える時期を細かく計画する必要がありませんでした。ククルカン神殿の仕掛けから見てとれるように、1年の長さに重要な意味があっても、季節と月日のずれに古代メキシコ人はあまり関心がなかったのかもしれません。

一方、同じように「うるう年」がなかったため、古代エジプトでは季節と月日の調整に苦労したと言われています。これは、古代エジプトでは収穫に大きな影響を及ぼすナイル川の氾濫時期を正確に把握することが重要だったからです。

ツォルキン暦

「ツォルキン暦」は宗教的な儀式や行事などの時期を決定するための暦です。
「十干(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」の組み合わせである干支(えと)と同じように、ツォルキン暦は13日周期と20日周期の組み合わせでできていて、1年を260日としています。それぞれの日に意味があり吉凶を持っているこの暦を、現在でも利用している部族がいるそうです。

「260」という数字が選ばれた理由として、「妊娠の期間が260日だから」「太陽が頂点から南へ行き、また頂点にもどる期間が260日だから」など意見がありますが、はっきりしたことは分かっていません。

干支は60年で一巡しますが、マヤ文明では365日周期のハアブ暦と、260日周期のツォルキン暦の最小公倍数である18,980日(約52年)で一巡します。

長期暦

長期暦は、マヤ世界の始まりからの時間の経過を記録したもので、戦争や王に関する重要な出来事が石碑や祭壇に彫られています。

この長期暦によると、マヤが始まったのは紀元前3114年8月13日です。

長期暦は「バクトゥン、カトゥン、トゥン、ウィナル、キン」という5つの期間、または時の単位で成り立っていて、1キンが1日、1キンが20集まると1ウィナル、1ウィナルが20集まると1トゥン…というように二十進法に従っています。

これらの単位はマヤ文明の研究者によって名付けられたもので、実際にはどう呼ばれていたのか分かっていません。ただ、「キン」だけは、マヤ人もそう呼んでいたと考えられています。

暦や天文に関わる図像が描かれた土器・絵文書

古代メキシコの人々が暦や天文学に強い関心をもっていたことは、発掘されているものからも推測できます。

ドレスデン絵文書

ドレスデン絵文書とは、西暦1300年ごろから始まる後古典期に作成された天文学や予言、神事などが記された樹皮製の冊子で、スペインによる異端審問を生き延びた4つの絵文書のうちのひとつです。

78ページからなるこの絵文書には、12年にわたる金星の明けの明星、または宵の明星としての現れ方が記されていたり、日食と月食の表、農業の予言書などが記されていたりします。

星の記号の土器

古代メキシコでは、金星を太陽・月と並ぶ重要な星として位置づけて観測していました。

金星は「全破壊」の記号であるとともに、儀式の日取りを左右する重要な役割も担っていました。

マヤ文明の土器である「星の記号の土器」は、中央の十字型と4つの円からなる黒い記号が金星などの星、尾を引く図像は流星と考えられています。

星の記号の土器
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」展示
《星の記号の土器》 マヤ文明 700年~830年 出土地不明
ユカタン地方人類学博物館 カントン宮殿
展示風景は東京会場(会期:2023年6月16日(金)~9月3日(日))のもの

夜空を描いた土器

「夜空を描いた土器」は、上には夜空が描かれ、中央の大きな文様は月、下の文様は夜行性の鳥の羽ではないかと考えられています。

マヤ文明では天体の動きは地上の出来事と密接に関わっていると考えられていて、土器のモチーフにも多く使われています。

夜空の星の土器
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」展示 
《夜空を描いた土器》 マヤ文明 600年~830年 出土不明
ユカタン地方人類額博物館 カントン宮殿
展示風景は東京会場(会期:2023年6月16日(金)~9月3日(日))のもの

セイバの木の土器

マヤの人々は、世界は地上界・地上界・地下界から成り立つと考えていました。
ピラミットの内部を地下へと降りていくことは死後に地下界へと旅立つことを表していると言われています。

また、マヤの人々が神聖視していたセイバの木は、枝は神の住む地上界へ、根は地下界へと続いていると信じていたとされています。

セイバの木の土器
《セイバの木の土器》BIZEN中南米美術館蔵 
展示風景は「冒険!マヤ文明」展 エピソード2(会期:2023年3月28日~10月9日)のもの

彩文三足大皿

内側に描かれているのは通称プロペラ花と呼ばれている世界のシンボル。東西南北と中心の丸は地上界・地下界・天上界を表しています。周囲の黒丸はムアンの羽根の模様です。

彩文三足大皿
《彩文三足大皿》 BIZEN中南米美術館蔵
グアテマラ 600年~950年 マヤ南部低地
展示風景は「冒険!マヤ文明」展 エピソード2(会期:2023年3月28日~10月9日)のもの

日本の暦の歴史

暦が朝鮮半島を通じて中国から日本に伝わってきたのは飛鳥時代だと伝えられています。

日本最古の歴史書である日本書紀には、「535年に百済から暦博士を招き、暦本を入手しようとした」と記されています。

その後、日本では陰陽寮が暦の作成・天文・占いを司り、平安時代からは暦を賀茂氏が、天文は安倍晴明を祖先とする安倍氏が専門家として受け継いでいきます。

当時の暦は、1ヶ月を月の満ち欠けによって定める「太陽太陰暦」でした。
月が地球を回る周期は29.5日。一方、地球が太陽を回る周期は約365.25日のため、次第に暦と季節が合わなくなっていきます。そのため2~3年に1度は閏月を設けて13か月とし、季節と暦を調整していました。

暦の制定は非常に重要な意味を持っていたため、朝廷や幕府が監督していました。現在の太陽暦に改められたのは明治時代に入ってからです。

さいごに

古代メキシコでは、紀元600年から800年ごろに暦が確立していました。

日本にも飛鳥時代(592年~710年)には暦が伝わってきたとされています。聖徳太子が活躍していたのが590年ごろですから、そのころから暦があったということです。

古代メキシコ人は、今回紹介した代表的な3つの暦以外にもさまざまな暦を使い分けていて、いまでも解明されていない暦があるそうです。

現在、マヤ文明の遺跡発見にはドローンなどを最新の技術が使われています。まだ未発見の遺跡から、思いもよらないものが発掘される可能性があります。遺跡の発掘が進んだり、マヤ文字の解明が進んだりすることでマヤ文明の全容がもっと詳しく分かるのも、もしかしたらそう遠い未来ではないかもしれません。

【参考】

(koedo事業部)

BIZEN中南米美術館

  • 展覧会名:世界中で愛されるチョコレートの起源を明らかにする特別展『チョコレートの王国』
  • 期間:2023年10月21日(土)~2024年3月31日(日)
  • URL:https://www.latinamerica.jp/
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン

  • 東京国立博物館 平成館  2023年6月16日(金)~9月3日(日) 終了しました
  • 九州国立博物館(福岡会場)2023年10月3日(火)~12月10日(日) 終了しました
  • 国立国際美術館(大阪会場)2024年2月6日(火)~5月6日(月・休)