塾から見た「オンライン授業」における学校教育の意味

 私の住む福岡は2回目の緊急事態宣言が発令されている。コロナの感染者は毎日3桁を超えている。そんな中、小学校では一斉のオンライン授業が行われたようだった。

 塾に通う生徒に話を聞くと、「先生の画面が固まって何もわからなかった」「先生の音声もカクカクだし」「お友達がゲームをしているまま画面も固まっていた」などの報告とともに、「本当に何にもわからなかった」と繰り返した。授業としては破綻していると言える。

 福岡はオンライン授業に向けて比較的早い段階で子供たち一人ひとりにパソコンが配られており、普段の授業の中でも使っているようだった。先生が目の前にいて、みんなで一緒に動かしていれば、問題はなく進んでいるようだ。

 今まで「ローマ字」に興味がなかった生徒も、パソコンに内蔵されているタイピングソフトで友達と競いたいからと、積極的に「ローマ字」を練習するようになった。そういった子供たちの変化はオンライン授業があったからこそ、見られたものだった。

 今までのローマ字の授業は同じ文字を何度も延々と書かせるもので、ただの苦行に近かった。この状態に比べれば友達と競えるソフトやゲーム感覚で練習ができる環境は、子供たちの学力向上に貢献していると思う。

 一方で、先に書いたように、環境が整っていない場合は「疑問」や「わからない」を多発させてしまい、マイナスな面も多い。わからないことが多発すると、当然子供たちはそっぽを向いてゲーム機に手が伸びる。子供らしいと言えば、子供らしい結果である。

 ただ、今の感染状況を見ると、オンラインでしか授業を受けられない状況が突然やって来てもおかしくない。それはそれは突然に。

 私の塾の生徒も親が濃厚接触者になり、学校から出席停止を受けたこともある。仕方ないとはいえ、いきなり学校や友達と遮断された世界に取り残される。私の塾は春からオンラインの学習の取り組みを行っていたので、他の生徒が学校に行っている時間にオンラインでつなぎ、話をしたり、勉強を教えたりした。家族以外の他者と関わるだけでその日は気持ちが楽になったようだった。

 こういったオンラインにおける課題は何と言っても通信設備だろう。ここが解決すれば、半分以上の問題は解決するのではないかとさえ思う。私塾であれば発信する方の環境を整えるのは簡単だ。お金があれば整えることができる。生徒にタブレットを貸し出せば済むことだ。でも、これを公的な学校で今すぐやるのは無理な話。

 しかし、環境が整うのを待っていても先へは絶対に進まない。学校教育というと誰しもが「平等」で「不公平のないように」と言う。だた、現実世界は「不平等」である。「平等」「公平」を待っていては何も進められないのが現実だ。

 拙くとも勇気をもってオンライン化の先へ進んでいくしかない。私たち私塾であれば比較的保護者の同意は得られやすく、通信環境改善のための協力も快くしてくれることが多い。ただこれが公的な教育となると、それぞれの家庭の事情が違い過ぎる。これを足並み揃えて進めることはかなりの時間を要する。しかし、現実は待ったなしの状況でもある。

 実際に新聞でも濃厚接触者になってしまった児童の記事を読んだ。オンラインでも先生とつながっていたい。友達と繋がっていたい。さみしい。孤独だ。悲痛な訴えである。

 これらは授業のスキルに関係なく差し伸べることができる部分ではないだろうか? 学校の先生は確かに忙しい。私たち塾講師に比べると仕事量は半端なく多い。ほんの少しの優しさをオンラインに乗せられたら、たとえ環境が未熟でも、先生の優しさやお友達との会話は子供の心の安らぎになる。それだけでもオンラインの意味はある。

この記事を書いたひと

松本 正美
(まつもと まさみ)

「学ぶ力は、夢を叶える力!」松島修楽館代表。中学3年生の時に「将来は塾の先生になる!」と決意し、大学1年生から大手個別指導塾で教務に就く。卒業後、そのまま室長として10年間勤務。その後、新興のインターネット予備校で生徒サポートの仕事に携わった後、2013年に松島修楽館を開業。単なるテストのための勉強だけではなく、「どんな夢でも、正しい努力によって叶えることができる」ということを子どもたちに伝えるため、根本的な「学ぶ力」を育むことを重視した指導を行っている。2人の高校生の母。趣味はサックス、タップダンス。