【古代メキシコ×STEAM教育】スポーツとなった神事 ーサッカー、相撲

2024年2月7日

古代メキシコでは、スポーツとしてではなく、人身供犠を伴う宗教儀礼、外交使節を迎える儀式として古くから球戯が行われていました。

この球戯の詳細は分かっていませんが、熱帯地域の特産品であるゴムの木の樹液と熱帯朝顔の草汁を混ぜて作った直径10センチ~30センチ、重さ3キロから7キロほどあるボールがいくつも発掘されています。

現代で言えば、大きなボールを使う球技としてバスケットやサッカーが挙げられますが、社会人も使う一番大きなものでも、バスケットボールは直径24.5センチ、重さが567~650g、サッカーボールは直径22センチ、重さが450g程度と定められています。

実際、展示会でこのボールを目にすると、意外なほどの大きさにビックリします。

ゴムボール
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」より
《ゴムボール(民族資料)》メキシコ国立人類学博物館
展示風景は東京会場(会期:2023年6月16日(金)~9月3日(日))のもの

この球戯専用の球戯場が、メソアメリカ一帯でおよそ2300カ所、マヤ地域だけでも200カ所以上見つかっています。

ひとつの都市には複数の球戯場がある場合が多く、チチェン・イツァでは7カ所、テオティワカンと同時期に栄えたメキシコ中央高原東端の都市カントーナでは、メソアメリカ最多24カ所もの球戯場がありました。

現代に照らし合わせて考えてみると、ひとつの都市にサッカー場が24面ある…ということです。それだけ重要な宗教儀礼であり外交儀式だったということです。また、同盟国、友好国同士の親善的マッチの場合は、スタンドで饗宴も行われた場合もあったようです。

現在確認されている最古の球戯場は、メキシコ南東部のパソ・デ・ラ・アマーダ遺跡から見つかっていて、前1600年ごろのものと考えられています。

球戯場の大きさ・形態はさまざまですが、最大の大きさを誇る球戯場はチチェン・イツァで発見されていて、長さ168メートル、幅70メートル、壁の高さは8メートルもあります。

国際サッカー連盟(FIFA)が推奨するコートが縦105メートル、横68メートルですので、チチェン・イツァで発見された球戯場がいかに広いかが分かります。

チチェン・イツァの球戯場の側面に設けられた輪
チチェン・イツァの球戯場の側面に設けられた輪(Wikipedia

ルールはシンプルで、球戯者はボールを腰で打って跳ね上げて、高さ6メートルのところに取り付けてある石の輪に通す、もしくは当てるというものです。

ルールだけ聞くとサッカーというより、むしろバスケットボールのルールに似ていますが、バスケットのゴールの高さは305センチ、ボールの大きさが24.5センチに対し、ゴールの直径は45センチあります。それに対し、この輪はボールが入りにくいように設置され、大きさもボールが通るギリギリの大きさでした。

固くて重いボールを使うため、球戯者は腰に太いベルトのようなもの巻き、胸部や腕、足などにもプロテクターを付けていたとされています。

球技をする人の土偶
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」より
《球技をする人の土偶》 マヤ文明 600~950年 ハイナ出土 メキシコ国立人類学博物館蔵
展示風景は東京会場(会期:2023年6月16日(金)~9月3日(日))のもの

この球戯がどこで発明されたのかはわかっていませんが、テオティワカン、アステカ、マヤなどのメソアメリカ文化圏で盛んに行われていて、アステカでは「ウラマリツリ」、マヤでは「ピッツ」と呼ばれていました。

マヤ文明トニナ遺跡「水の宮殿」から出土した「トニナ石彫171」には、球戯の場面が描かれています。

中央のゴムボールの上にマヤ文字で西暦727年にあたる年が記されていて、右側がカラクムルの王、左側がトニナの王で両国の外交関係を象徴するものと考えられています。

トニナ石彫171
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」出展作品
トニナ石彫171 マヤ文明、727年頃 トニナ、アクロポリス、水の宮殿出土 メキシコ国立人類学博物館蔵
©Secretaría de Cultura-INAH-MEX. Archivo Digital de las Colecciones del Museo Nacional de Antropología. INAH-CANON

球戯者は戦争の捕虜であることもあり、最後の1人が勝者として決まるまで続けられたとされています。また、球戯の勝敗で生贄(いけにえ)になる者を決めたとされていますが、敗者が生贄にされたとも、勝者が生贄にされたとも言われていて現在でもはっきりしていません。

また、この球戯のボールを描いたチョコカップが発掘されています。

チョコレートカップ
BIZEN中南米美術館 《写真中央:彩文深鉢》
グアテマラ マヤ南部高地 古典期後期 紀元600~950年頃

正面に描かれた大きな丸が球戯用のゴムボールを表しています。両脇の花びら状のものは、通称「プロペラ花」と言い、東西南北と地上界~現世~天上界を表す世界の印です。

ゴムの歴史

メキシコ地方には古来よりゴムの木が多く生息していました。ゴムの木を傷つけることで樹液が流れます。この樹液が木の下で固まったものが野生のゴムです。

古代メキシコ人は、この野生のゴムを使ってボールを作ったり水筒のような器を作ったりしていたとされています。

ゴムの存在をヨーロッパに初めて広めたのはコロンブスです。15世紀末、コロンブスは第2次航海のときゴムを発見してヨーロッパに持ち帰ったものの、野生のゴムは暑いとベトベトになり、寒くなると固まってしまうため、そのままの状態で持ち帰ることができませんでした。ゴムが現在の用途で使われるようになったのは、それから約200年後のことです。

スポーツ競技人口

スポーツの競技人口については明確な定義がなく、正確なデータを集めるのは簡単ではありませんが、「世界でもっとも盛んなスポーツは?」と聞かれたら「サッカー」と答える人が多いのではないでしょうか?

実際、国際サッカー連盟(FIFA)加盟国・地域は、国連加盟国数193ヵ国よりも多く200ヵ国を超えています。

しかし三菱UFJ信託銀行の調べによると、世界のスポーツ競技人口は1位がバレーボールの約5億人、2位がバスケットボールの約4億5,000万人、3位が卓球の推定3億人と続き、サッカーは5位で約2億2,600万人と競技人口はバレーボール競技者の半分ほどとなっています。

古代メソアメリカにおける戦争捕虜

「交易と戦争」でも触れましたが、古代メキシコでは捕虜を獲得するために戦争を行っていました。

マヤ文明トニナ遺跡で発掘された石板からは、捕らえられた捕虜が服や装飾品を取られ、ピアスの穴に紙の帯を通されたうえで、縄で縛られた様子が描かれています。

トニナ石彫153
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」より
《トニナ石彫153》マヤ文明 708~721年 トニナ出土 トニナ遺跡博物館蔵
展示風景は東京会場(会期:2023年6月16日(金)~9月3日(日))のもの

捕虜は人身供犠の生贄(いけにえ)にされたり、乱暴に殺されたりすることもありましたが、荘厳な儀式に参加することもあったと考えられています。

パレンケ遺跡「王宮の塔」から出土した「書記の石板」は、右手に布をかけ、筆のように見えるものを持ち、左手には旗のようなものを持っていることから、儀式用の出立ちを表していると考えられています。

書記の石板
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」より
《書記の石板》マヤ文明 725年頃 パレンケ 王宮の塔出土
アルベルト・ルス・ルイリエ・パレンケ遺跡博物館蔵
展示風景は東京会場(会期:2023年6月16日(金)~9月3日(日))のもの

スポーツとなった神事

古代メソアメリカで行われていた球戯は、資料が残っていないので詳細は分からないものの、なんらかの宗教的儀式に関わっていたのではないかとされています。

日本にも、神事として行われていたものがスポーツとなったものがあります。

蹴鞠(けまり)

サッカーの起源には、さまざまな説があります。
そのうちの1つがアステカで「ウラマリツリ」、マヤでは「ピッツ」と呼ばれていた球戯です。

ほかにも、イギリス発祥説、イタリア発祥説、キリスト教のお祭り説、中国発祥説…などが挙げられますが、国際サッカー連盟(FIFA)は、中国発祥の「蹴鞠」がサッカーのもっとも古い形態だと認めています。

中大兄蹴鞠図
《土佐長隆/中大兄蹴鞠図》東京国立博物館蔵 国立文化財機構所蔵品統合検索システム

日本では平安時代の貴族が行っていたイメージが強い蹴鞠は、およそ1400年前、大化の改新のころに中国から仏教とともに伝わってきたとされています。現在でも、京都の賀茂御祖神社(下賀茂神社)では「蹴鞠はじめ」が正月の神事として行われています。

相撲

相撲の歴史は古く、相撲人形が古墳時代(3世紀~7世紀ごろ)の遺跡から出土しているほか、古事記(712年)や日本書紀(720年)にも登場します。

その年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として行われていた相撲は、のちに「相撲節会(すもひのせちえ)」として宮廷で五穀豊穣、天下泰平を祈念する神事として300年続きました。

武士の時代になると、相撲は鍛錬の一環として武士の間で盛んに行われるようになります。「信長公記」によると、相撲好きだった織田信長は相撲大会を開催し、勝ち残ったものを家臣として召し抱えています、また、源頼朝も鶴岡八幡宮の祭礼に併せて上覧相撲を行っています。その後、江戸時代に入ると寺社の修繕費などの資金を集めるための勧進相撲が行われるようになったことで、庶民の娯楽として広まっていきました。

力比べである相撲は、ケンカや暴動に発展することも多く、江戸時代にルール化・様式化され次第にスポーツとしての形態を整えていきました。

現在、石川県の羽咋神社や、茨城県の鹿嶋吉田神社、琴平神社などで神事相撲が行われています。また、愛媛県の大山祇神社では、旧暦の5月5日に稲の精霊と相撲を取り豊作を占う「一人角力(ひとりずもう)」が行われています。

流鏑馬(やぶさめ)

イメージ写真
鏑流馬(イメージ)

鏑流馬とは、疾走する馬の上から矢を射る武術のことです。

その起源は古く、6世紀の中頃、欽明天皇が九州豊前の宇佐の地において「天下平定・五穀豊穣」を祈願し、馬上から3つの的に射させた神事が始まりとされています。

平安時代に入ると鏑流馬は宮廷行事として実施されるようになり、鎌倉時代には源頼朝が積極的に奉納していますが、戦国時代になると鉄砲が合戦の主流となり、鏑流馬は一時衰退しました。その後、徳川吉宗の命令により小笠原流礼法文化の研究が始まり、それ以降たびたび鏑流馬が神事として行われるようになりました。

現在は、武田流や小笠原流などの流派が伝承する鏑流馬と、神社の神職や氏子、または保存会に受け継がれた鏑流馬がイベントや神事として全国で実施されています。

また、儀式や所作などに捉われない「スポーツ鏑流馬」が乗馬クラブなどで少しずつ浸透され始めています。

さいごに

古代メソアメリカで行われていた球戯はスポーツとしてだけではなく、重要な国家儀式として行われ、敗者は生贄(いけにえ)として神に捧げられることもあったと言われています。

日本の国技である相撲も、かつては神事として行われていました。いまでも、十両以上の力士は土俵に入る前に必ず塩をまきます。これは「清めの塩」と言い、土俵の邪気を祓い、神に祈るという意味があります。

今回はスポーツについて深掘りしましたが、サッカー強豪国であるメキシコで、サッカー発祥説のひとつである球戯が紀元前から行われていたことを興味深く感じました。機会があったら、自分が好きなスポーツを深掘りしてみるとおもしろいかもしれません。

BIIZEN中南米美術館

  • 展覧会名:世界中で愛されるチョコレートの起源を明らかにする特別展『チョコレートの王国』
  • 期間:2023年10月21日(土)~2024年3月31日(日)
  • URL::https://www.latinamerica.jp
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」

  • 東京国立博物館 平成館  2023年6月16日(金)~9月3日(日) 終了しました
  • 九州国立博物館(福岡会場)2023年10月3日(火)~12月10日(日) 終了しました
  • 国立国際美術館(大阪会場)2024年2月6日(火)~5月6日(月・休)

(koedo事業部)

【参考】