【はにわ×STEAM教育】埴輪が出土した場所、埴輪が表現しているものとは?

現在、東京国立博物館において、「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展『はにわ』」が開催されています。

埴輪と同じように土で作られた像として「土偶」が挙げられますが、土偶は縄文時代に作られたもの、埴輪は古墳時代に作られたものです。

ところで、埴輪は大きく2種類に分けられるのをご存知でしょうか。 ひとつは円筒埴輪(えんとうはにわ)、もうひとつは「形象埴輪(けいしょうはにわ)」です。「埴輪」と聞いたときに思い浮かべる「人物」の埴輪は形象埴輪の一種で古墳時代終末期に造られたものです。

円筒埴輪
重要文化財《円筒埴輪》
奈良県桜井市 メスリ山古墳出土 古墳時代・4世紀 
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵
埴輪 踊る人々
《埴輪 踊る人々
埼玉県熊谷市 野原古墳出土 古墳時代・6世紀 
東京国立博物館蔵
はにわ展
特別展「はにわ」東京会場展示風景

埴輪の起源は、弥生時代後期(西暦200年ごろ)に吉備地方、いまの岡山県を中心とする地域で葬送儀礼用の土器として使用された特殊壺と、この壺を乗せるための台(特殊器台:とくしゅきだい)と考えられています。

その後、古墳時代に入ってから家形、鳥形、船形、動物形と徐々に種類を増やしていきましたが、仏教が浸透し前方後円墳が作られなくなった7世紀には姿を消してしまいます。

古墳時代後期には、近畿地方で生産が終息。東日本の一部地域でのみ生産を継続していました。

古墳とは

古墳時代は、その名の通り古墳が盛んに造られた時代で、3世紀から7世紀ごろまでを指し、弥生時代と飛鳥時代の間におよそ350年続きました。

古墳は3世紀後半、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて出現し始めました。現在、16万基もの古墳が日本全国で確認されていますが、沖縄県では造られていません。また、東北地方北部、北海道にある古墳は「末期古墳」と呼ばれ、7世紀から10世紀にかけて造られており、円形を基本とした土盛りがあまり高くない墳墓で、それまでに造られていた古墳とは別のものだと考えられています。

古墳には前方後円墳、方墳、円墳、帆立貝墳など、さまざまな形があります。

全長400メートルを超える大きなものから、10メートルほどのものまで、さまざまな形や大きさがあります。これは、被葬者の身分や階層を表していると考えられています。

日本でもっとも大きい古墳は仁徳天皇陵古墳(大山古墳)で全長486メートル、高さは35メートル。古墳は土を盛り上げて造った大きな墓ですが、これだけの大きさの盛土から地盤が受ける載荷重は1平方メートルあたり50トン以上にもなります。これは、12階から30階建ての鉄筋コンクリートビルと同じくらいの重さです。それだけの重さを支えるために、地質的に強固な場所を最初から選んでいたと考えられます。

エジプトのピラミッドをはじめ、王のために巨大な墓を造る習慣は世界各地にありますが、それらが造られた時代、王の権力が非常に強く、専制政治が行われていたことが一般的です。つまり王の墓を造るために苦役が課せられていました。しかし、古墳が造られていた時代、日本では王の権力はそれほど強くなかったと考えられています。

全国に約16万基ある古墳のうち最上位の形は前方後円墳で、350年の間に約5000基が岩手県から鹿児島県におよぶ広い範囲で造られました。最上位の古墳がこれだけ全国で造られていたということは、地方の豪族と中央政権が密接に関わり、友好の証として前方後円墳を地方に造ることを認めたのではないかと推測されています。

しかも、エジプトのピラミッドが100基程度であるのに対し、日本の前方後円墳が約5000基も造られているということは、大豪族だけではなく、小豪族も中央と関係を結べる仕組みがあったのかもしれません。

世界三大墳墓

仁徳天皇陵は、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とともに「世界三大墳墓」のひとつに数えられています。

クフ王のピラミッドは仁徳天皇陵よりもはるか昔、紀元前2500年ごろに築造されていて、下辺の長さが230メートル、高さは146メートルもあります。

秦の始皇帝陵は、始皇帝が王位についた直後の紀元前247年から紀元前208年ごろにかけて造られたと推測されています。長年の浸食で陵墓の頂点は丸くなっていますが、ピラミッド型の土塁で全長350メートル、高さ76メートルにおよびます。

仁徳天皇陵は高さでこそピラミッドより低いですが、ほかの2つと比較すると、いかに大きな墳墓であるかが分かります。

仁徳天皇陵を造るために必要な人数と日数は?

仁徳天皇陵は、どのように造られたのでしょうか。

当時の人々が使っていた道具はクワやスキ、土砂運搬のためのモッコぐらいでした。古墳を造るために、まずは濠を掘るところから始めます。掘った土は墳丘となる部分に盛り上げていきます。現場で降ろされた土は足で踏み固めたと考えられます。

盛土が完成したら葺石を敷き、埴輪を並べていきます。
最後に埋葬施設を造り、埋葬後に石室を閉じたら古墳の完成です。

ゼネコン大手の「大林組」が1985年に仁徳天皇陵を造るために必要な日数と人員を計算しています。

それによると現場の人々が1週間に1回休みを取り、1日8時間労働と仮定した場合で、工事のピーク期には1日2,000人が働いていたとして完成までに15年8か月かかるそうです。延べ作業員は680万7000人、総工費796億円という規模の大工事です。

この人数はあくまでも作業していた人数で、このほかに膨大な数のスキやクワなどを作る人や指導者なども含めると総勢3,000人もの人々が常駐していたと想定されます。さらに、この人数が宿泊する場所や食事の世話をする人も必要です。

古墳時代と比較するために、大林組は現代において仁徳天皇陵を建設した場合の必要経費も同時に試算しています。

その結果、建設に要する工期は2年6か月、工期中に必要とされる作業員数は延べ29,000人、総工費は20億円。この計算は1985年当時のものなので、今はもっと高いかもしれません。

しかし、古墳時代と現代で人力と機械力の差はあるものの、施行順序に大きな差はなく、土木工事の原点は千年以上も前から本質的に変わっていないそうです。

埴輪が出土した場所

履中天皇陵
履中天皇陵

「古墳」と聞いたときに、木々が生い茂り濠に囲まれた前方後円墳を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、もともとは直径20センチほどの小石で全体が覆われ、平らな部分には埴輪が置かれていました。

埴輪は粘土で形を作って焼いたものがほとんどですが、石で造られたもの、木で造られたものもあります。

福岡県や熊本県を中心とした九州北・中部地域では、9万年前に阿蘇山が噴火した際に大量の火砕流が積もってできた石が多いこともあり、石を活用して造られた石人石馬が6世紀に大流行しました。

武装石人
重要文化財《武装石人》
福岡県八女市 鶴見山古墳出土 古墳時代・6世紀 
福岡・八女市蔵(岩戸山歴史文化交流館保管)

また、近畿地方では木製の埴輪が比較的よく見つかっています。

埴輪のなかで数がもっとも多いのは円筒埴輪で、古墳の頂上部や古墳の周囲、濠に沿って一周するように並べられていました。円筒埴輪は聖域であることを示す結界の役割があったとみられていて、数万本もの円筒埴輪が並べられていた古墳もあります。

はにわ展東京会場展示風景
特別展「はにわ」東京会場展示風景

4世紀初頭、遺体が埋められた頂上部を円筒埴輪で囲んで守るスタイルが登場し、以後、頂上や墳丘のテラス部分を円筒埴輪で列状に囲むスタイルへと変化していきます。5世紀になると巨大な前方後円墳では、濠の外にも埴輪が並べられるようになっていきます。

形象埴輪は古墳時代前期(4世紀)に現れ、中期(5世紀)に盛んに造られるようになりました。古墳の埋葬施設上部に家や盾、鞘などの形象埴輪が配置されていたことから、被葬者の居場所を示し、その場を守る存在だったと考えられます。形の埴輪は5世紀中頃に登場します。

4世紀後半から4世紀末頃、墳丘の裾に造り出しが設けられるようになり、そこに家を中心とした埴輪群が並べられるようになります。

「造出」とは古墳にあとから付け足されたでっぱり部分のことです。
造出が取り付けられた理由は古くから論じられていますが、いまだに結論には至っていません。現在では、もともと古墳の頂部で行われていた祭祀が、ある時期から造出で行われるようになったのではないかと考えられています。

 

造出には、多くの埴輪が並べられていました。諸説ありますが、「殯(もがり)」が行われた場面を表しているのではないかという説もあります。

「殯」は現在でも皇室の大喪儀のひとつとして行われていますが、日本の古代において行われていた葬送儀礼です。大昔、日本では人が亡くなった際にすぐに埋葬するのではなく、ご遺体を納棺後に仮安置し、白骨化するなど物理的な変化を見て「死」を確認していました。

埴輪 鷹匠
特別展「はにわ」東京会場展示風景
《埴輪 鷹匠》
群馬県太田市 オクマン山古墳出土 古墳時代・6世紀 
群馬・太田市教育委員会ほか(新田荘歴史資料館保管)
琴を弾く男子
特別展「はにわ」東京会場展示風景
《埴輪 琴を弾く男子》伝茨城桜川市出土 
古墳時代・6世紀
東京国立博物館

このほかにも、狩りを行っている場面や祭祀の場面が再現されていることから、人物の埴輪は単体ではなくストーリ性を持たせるために登場したものと考えられています。

さいごに

現在、東京国立博物館において特別展「はにわ」が開催されています。

この記事では、その埴輪が造られた古墳時代に焦点を当て、古墳についても触れています。

「埴輪」と聞いて、まず思い浮かべる埴輪はどんな埴輪でしょうか

教科書に載っていた、ちょっととぼけた顔の埴輪や馬の形をした埴輪を思い浮かべる方も多いかもしれません。しかし、埴輪のなかでもっとも多いのは円筒埴輪です。円筒埴輪のなかには高さが2メートルを超えるものまであります。その大きさもさることながら、薄さが2センチほどしかないことにも注目です。当時の人々の技術力の高さをうかがい知ることができます。

特別展「はにわ」では、360度、どこからでも見ることができるよう展示されているものもあります。武人姿の埴輪の後ろ側がどうなっているのか、足もとはどうなっているのかをじっくりと観察してみたり、埴輪から当時の人々の生活の営みを想像してみたりするのも楽しいかもしれません。

(koedo事業部)

挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」

  • 東京国立博物館 平成館 令和6年10月16日~令和6年12月8日
  • 九州国立博物館     令和7年1月21日~令和7年5月11日

【参考】