【学校3.0】序論:①教育思想から見る「学校」とは

2021年1月13日

 

 2020年の出来事といえば「コロナ」に尽きると思います。学校は休校になり、仕事はテレワークになりました。コロナの影響で、自宅でのオンライン授業を受けられたお子さんも多いのではないでしょうか?

 まったく新しい生活様式になり、仕事のスタイルも大きく変化してきました。こんなときだからこそ、新しい時代の学校について考えてみたいと思います。

 新しい学校について考えるには、「そもそも学校とはどういうものか」という教育思想から話さなければいけません。政治や民主主義の話にも及びますが、どうかお付き合いください。

 「学校とはどういうものか」という問いに対しては、大きく分けて2つの考え方があります。1つは「教育・学校とは国が与えるもので、私たちはその受け手である」という考え方。もう1つは「教育とは本来親の固有の権利であって、学校は私たち親が委託しているに過ぎない」という考え方です。

 これを別の角度から表現すると、「教育とは国を発展させるためのものである」という考え方と、「教育とは個人が幸福になるためのものである」という考え方になります。

 私は教育者として後者の立場をとっています。私が教育者として子どもたちとかかわっているのは、あくまで「子どもたちが将来幸福になるため」だと考えています。

 個人の幸福に焦点を当てた瞬間に、絶対外せないものが出てきます。それは思想信教の自由です。何を考え、何を思い、何を信じるかの自由は、個人の幸福において絶対にはずすことができません。なぜなら、学校は「その人が何を好きで何を嫌いか」という感情の部分をコントロールすることができないからです。

 そう、実は国は「何が正しくて何が間違っているかを決めることはできない」というのが根本にあります。現実としてそのように機能しているのは『民主主義』が成り立っているという前提があるんです。民主主義的な合意形成を経て、国に何が正しいかを決める権利を預けているにすぎません。

 ここで新たな問題が発生します。国が正しさを決めることができるのなら、その正しさを教育で押し付けることができてしまうんです。つまり、国は自分たちにとって都合の良い教育を意図的に作ることができてしまうんですね。

 最近の教育でいうと、LGBT問題などがあります。学校や教育番組などで理解が深まるようなアプローチをすることはとってもいいことだと思います。ただ、こうした教育をすることによって、「男は男らしく、女は女らしく」という考え方を根こそぎ否定してはいけないと思います。それこそ個人の思想信教の自由を踏みにじるものであるし、個人の幸福を壊していくもののように私には感じられるからです。

 学校が強くなりすぎると、国が考える画一的な教育にならざるを得ません。しかし親が「男は男らしく、女は女らしく」と考えているときに、学校や教師に「それは違う!」という権利はあるんでしょうか? 私はそんな権利は学校にはないと考えています。

 子どもは親の所有物でないことは言うまでもありませんが、であるならば学校の所有物でもないのは明白です。個人の幸福を追求するならば、子どもを幸福にする義務と権利は一義的に親にあるべきだと思います。

戦後から高度経済成長を支えてきた日本の教育は、私は成功したと思っています。しかし、過去に成功したものがこれからも成功し続けるとは限りません。次の時代の新しい学校を考えるにあたり、私は「学校とは国のためにあるものではなく、親の教育権を一時的に預けているにすぎないものだ」ということを出発点にしていきたいと思います。

未来の学校は、子どもを育てるためのどの部分を引き受けるべきなのか、あるいは引き受けることが可能なのかについて、真剣に考える時期が来ているのかもしれません。

■この記事を書いたひと

牧 静(まき・しず)

プロ家庭教師・母親コーチ。法政大学文学部教育学科卒。専攻は教育行財政学。大学卒業後も教育心理学、発達心理学、認知心理学等を学び、子どもの成長についての高い見識を持つ。大学卒業後15年間塾講師を勤め、教えた生徒は3,000名にのぼる。開成高校、慶應女子高校、早稲田実業高校など、名立たるトップ校の合格実績を有する一方で、不登校や学習に課題のある生徒へのサポート活動も行う。近年は「子どもの教育は親の教育から」と考え、母親向けのセミナーなども行っている。