【貨幣の歴史×STEAM】「石見銀山」が17世紀の世界地図に! 大判に含まれている金の含有率は?

日本では、中国の「開元通宝」をモデルとした「富本銭」が飛鳥時代に流通し、その後、奈良時代には「和同開珎」が流通していました。しかし、材料である銅の産出量が減少し、958年に貨幣の鋳造を中止。

それ以降600年もの間、日本には正式な通貨がなく、平安時代初期の銅銭のほか、「宋銭」「明銭」などの中国から輸入した渡来銭、それをマネして造られた「私鋳銭(しちゅうせん)」が使われていました。

日本初の貨幣制度を整えたのは…

戦国時代になると、大名はできるだけ多くの軍資金が必要となり、鉱山の開発と独自の貨幣の鋳造に力を入れ始めます。

当初は貨幣というよりも軍資金や恩賞として使われていて、目方も不揃いでした。

こうした状況のもと、武田信玄が日本で最初に貨幣制度を体系化したと言われていて、信玄が体系化した貨幣制度が、江戸幕府の貨幣制度の参考になったと考えられています。

なお、信玄が造ったとされる金貨は「甲州金」と呼ばれて甲斐国内で流通し、江戸時代まで鋳造されていたと言われています。

戦国時代、藩内のみで流通する貨幣を造った大名は信玄のほかにも上杉謙信や伊達政宗、徳川家康など数多くいますが、豊臣秀吉も金貨・銀貨を鋳造しています。秀吉が造った金貨のひとつに「天正長大判」と呼ばれる大きさが17cm×10cmの金貨があります。一般的なハガキの大きさが14.8cm×10cmですので、天正長大判がいかに大きな金貨だったかが分かります。天正長大判は、現在確認されている世界で一番大きな金貨です。

佐渡金山

資源が少ないと言われる日本ですが、かつて日本には多くの金鉱山・銀鉱山がありました。16世紀半ば、日本では金銀の採掘が盛んになり、技術革新により産出量が飛躍的に増えていきました。

日本最大の金鉱山だった「佐渡金山」は、1601年に開山されたと伝えられています。

その後、1603年には「天領」と呼ばれる江戸幕府直轄となって佐渡奉行所が置かれ、小判の製造も行われました。佐渡金山は江戸幕府の財政を支え、平成元年3月、資源枯渇のために操業を休止。400年にわたる長い歴史の幕が閉じられました。

《佐渡金抗図》東京国立博物館蔵
《佐渡金抗図》 江戸時代・18世紀写し 東京国立博物館所蔵
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

石見銀山

一方、日本国内で銀鉱山として有名なのが「石見(いわみ)銀山」です。

史料によると、石見銀山が発見されたのは1527年。銀鉱山の開発を開始したのは博多の豪商で、石見地方の東隣りにあたる出雲地方に向けて日本海沿岸を航行中に銀鉱山の存在を知ったとされています。

また、朝鮮王国の記録によると、日本は石見銀山開発前の15世紀後半から16世紀初めごろから銅・鉄を中心とする金属資源の供給国で、この供給経路を利用して石見銀山の銀が東アジアに輸出されていったとされています。

1542年には1回に1,350kgもの銀を日本国王使が朝鮮王国へと持ち込み、交易を求めています。当時、世界の年間銀産出量の推計が90,200kgであったとされていますので、石見銀山で採れる銀の量が相当多かったことが分かります。

日本で採れた銀の量が多かったことは、当時の世界地図にも表れています。

15世紀半ばから17世紀半ばまでは、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた「大航海時代」と呼ばれる時期にあたります。1606年、オランダで制作された「新地図帳」に「日本図」が収載されており、「石見」の地名が見られます。

《日本図》九州国立博物館所蔵
《日本図》 1606年 九州国立博物館所蔵(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム
※Hivamiと記載されている部分が「石見」を指します

金の含有率

日本で最初に金貨が造られたのは8世紀半ばごろとされています。しかし、一般に流通し始めたのは16世紀、江戸時代に入ってからです。

江戸時代に造られた金貨には「大判」と「小判」があります。

大判は慶長・元禄・享保・天保・万延と全部で5種類。縦の長さが14センチから17センチほどあり、先述したとおり一般に流通する通貨としてではなく褒賞用や贈答用など儀礼用として造られました。金貨が造られる前は、大きな取引や武功をあげた武士への褒賞には砂金が使われていたとされています。

ところで大判1枚あたり、金はどれくらい含まれていたのでしょうか。

大判特徴
慶長大判・家康の命令で1601年(慶長6年)に発行
・金の純度は68%
・ササの葉のような墨書きが特徴
元禄大判・1695年(元禄8年)に発行
・金の純度は52%程度
・角張った楕円形が特徴
享保大判・1725年(享保10年)に発行
・慶長大判と比べて丸みを帯びた楕円形
・金の純度は68%
天保大判・1838年(天保9年)に発行
・金の純度は約67%
万延大判・1860年(万延2年)に発行
・金の純度は37%
《天保大判》東京国立博物館蔵
《天保大判(表)》 江戸時代 東京国立博物館蔵像 
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
《天保大判》東京国立博物館蔵
《天保大判(裏)》 江戸時代 東京国立博物館蔵像 
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

大判の表側には重さを表す「拾両」、「後藤」という家名、そして後藤家当主のサインである「花押(かおう)」が墨によって書かれており、上下左右に丸枠桐紋極印がそれぞれ1か所ずつ打たれています。また、裏側には、中央に丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印が打たれています。

大判に書かれている「拾両」とは「砂金十両分の重さ(44匁=約165g)」という意味ですが、実際には小判10枚(10両)よりも金の量が少なかったとされています。

アクセサリーに含まれている金の含有量

「18金(K18)」「24金(K24)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

これは、ゴールドのアクセサリーに含まれている金の純度を表す単位です。

日本では、金の純度が99.9%以上の金を純金、または24金(K24)と呼んでいます。いわゆる「金の延べ棒」はK24をクリアしている必要があります。一方で、一般的に流通しているゴールドのアクセサリーはK18やK14が多いとされています。K1あたり約4.17%ずつ金の含有率が増えていく計算なので、K18の場合は金の含有率が約75%、K14の場合は金の含有率は約58%です。

K24のアクセサリーが少ないのは、純金のままでは柔らかすぎて加工がしにくいからです。アクセサリーに加工する際には、主に銀や銅、パラジウム、ニッケル、亜鉛などの金属が混ぜられています。加える金属の種類によってゴールドの色が変わり、たとえばピンクゴールド、ホワイトゴールドというようにカラーゴールドとして使われています。

現在の硬貨の材料は…?

江戸時代、金の価値がそのまま貨幣の価値でした。明治4年に新しい貨幣制度が整えられてお金の単位が「円」となったあとも、明治30年までは「金」が含まれた硬貨があり、昭和32年まで100円玉は銀貨でできていました。しかし、現在使われている硬貨には金も銀も使われていません。

では、いまは硬貨の材料として何が使われているのでしょうか。

貨幣の材料として使われている金属は、安定的に供給できなければいけません。そのため、貨幣の材料には次のような条件があります。

貨幣の材料となるための条件

  • 大量に入手でき、価格が安定していること
  • 国民が好感をもてること
  • 製造に適しており、流通中に変形や摩耗がしにくいこと
  • 自動販売機などの機械に使用する際、識別が便利なこと

これらの条件を満たすものとして、現在の日本の硬貨はアルミニウム・銅・スズ・亜鉛・ニッケルの5つの組み合わせによって造られています。

硬貨材料
1円玉アルミニウム
5円玉銅、亜鉛
10円玉銅、亜鉛、スズ
50円玉銅、ニッケル
100円玉銅、ニッケル
500円玉銅、亜鉛、ニッケル

布製のお札、陶器の硬貨

「お札」と聞くと、日本人は「紙でできたお金」を思い浮かべます。

しかし、現在、世界の20カ国以上でプラスチック製のお札が使われています。プラスチック製のお札は、1988年、オーストラリアで初めて発行され、現在ではオーストラリア以外にもニュージーランド、ベトナム、ルーマニア、チリなどでも使われています。

また、歴史を振り返ると、お札を造るための良質な紙や金属が入らない状況になったとき、たとえば戦争や政治的紛争が勃発したときに、布製のお札や陶器の硬貨が造られていました。

有名なのが、「国民党」と「共産党」が政治的に対立していた1933年に中国で造られた「布製のお札」です。

そのほかにも、1920年代にはドイツで革製のお札が、1940年代のチベットではワラでできたお札が発行されています。

日本でも、第二次世界大戦末期に金属が枯渇したため「陶器の硬貨」が造られました。焼き物業として今でも有名な「有田焼」や「瀬戸焼」の工場に依頼して、1945年7月から量産を開始し、約1500万枚が造られました。

ただ、その直後の8月に終戦を迎えたため、実際には発行されることなく破棄してしまったそうです。

いまも地名に残る「金座」「銀座」「銅座」

東京都中央区に「銀座」という地名があることは多くの方が知っていると思いますが、この「銀座」という地名の由来は江戸時代にまでさかのぼります。

江戸幕府は金貨・銀貨・銅貨の3つを基本的な通貨として定め、それらを造る「金座」「銀座」「銅座」という組織を作りました。「銀座」は、商業の中心であった大阪や京都、海外との窓口であった長崎などにも置かれていましたが最終的には江戸に統一され、明治時代に廃止されるまで、銀の買い入れから鋳造など銀にかかわることすべてを取り仕切っていました。

また、銀座は貨幣を取り扱う重要な組織であったため、そこで働く人々も羽振りがよかったという記録が残っています。東京の銀座に高級ブランドショップが点在しているのは、このころの名残なのかもしれません。

金座、銅座、〇〇座

「金座」は、現在の東京都中央区に「日本橋本石町」という名前になっていて、日本銀行の本店が建っています。江戸時代には江戸以外にも京都、佐渡、駿府(現在の静岡県)にも金座が置かれていたことが分かっています。

駿府にあった金座は、現在、静岡市葵区金座町として名前が受け継がれていて、日本銀行の静岡支店があります。

「銅座」は長崎に設置されていました。一部の外国との間で貿易をしていた鎖国時代、銅は、長崎から輸出される貴重な輸出品のひとつだったからです。いまでも長崎市銅座町として地名が残っています。現在は地名として残っていませんが、銅座はそのほかにも大阪と江戸に出張所が設置されていました。

このほかにも江戸時代には鉄座、真鍮座、人参座などがあり、それぞれ鉄、銅と亜鉛でつくった真鍮、薬用人参が扱われていました。

さいごに

日本は国内で貨幣を鋳造していますが、世界190カ国・地域のうち、自国で貨幣を製造しているのは約60ヵ国。そのほかの国では製造を他国に委託しています。日本の偽造を防ぐ技術は世界水準に達しているため、2017年以降に製造した外国貨幣は10カ国14種類にものぼります。

ところで、ゴールドのアクセサリーに刻まれている「K18」の「K」は何を指しているのか考えたことはありますか? これは、金を表す単位であるカラット(Karat)の略です。金は24を最大の数と考える「24分率」という基準が使われています。

なぜ金が24分率で表されるようになったかについては諸説ありますが、そのひとつが「イナゴ豆」です。乾燥させたイナゴ豆は1粒あたりの重さがほぼ均一なため、古代ギリシャでは宝石や金を量る際に分銅の代わりに使っていたそうです、

金は「イナゴ豆24個分」の重さを基準に取引されていたため、ギリシャ語でイナゴ豆を表す「Karat」が金の単位として使われるようになったと言われています。

(koedo事業部)

【参考】